定期的に話題に取り上げている、テーマです。
特攻隊を美化する首長になってから、久しい都の公教育ですが、そろそろ、彼に対する恐怖心を振り払い、公教育改革?とくに都立高校改革?の評価をすべきときと考えます。
特定校の進学実績向上を、同一人物とおぼしき改悪支持者が(塾の講師か?)、相変わらず、あちこちの掲示板で賛美していますが、特定校のことはさておき、都立全体としてはどうなったのか、評価すべきでしょう。
特定高校を賛美する者には、公教育の使命を、あらゆるニーズに応えることと誤解していて、頭のいい子、勉強できる子供への特別扱いを、当然のこととして、その他大多数のことなど、全く眼中にありません。
たぶん、この種の思想の持ち主には、鼻持ちならない優越感と、そこから派生する、特権意識にこり固まっているように思えます。
学力を指標にして、すべてをとらえるので、当然、下位層は切り捨て、あるいは、適当にあしらって、不満が出ないように遊ばしておけばよい、という人間の尊厳を損なうようなことをやっている現状でさえ、都立高校改革の勝利だ!などと、賛美する始末です。
下位層を多く抱える学校の先生方は、強制されているからやっているんじゃありません。都の改革とはなんの関係もないのです。教員としての使命感から、やっているのです。
この件に関しても、さも、都が主導してやっているような書き込みをする、現行都立高校改悪賛美者がいますが、全く現場を知らない、いや知る必要すら感じていないのでしょう。
恐ろしいことです、ネット時代とは。
公教育全体の充実を図ることが、今は一番大切なことで、ごく少数の者に特権を与えるときではありません。
公教育は、大多数の安寧をはかることを優先すべきです。特化することは、私学に任せておけばよいのです。私学は、それが大きな売りなのですから。
特色のない学校は、あるいは、自ら社会の流行に合わせようとする学校は、学力増進、受験の成功、を前面に押し出す戦略が、最も簡単なのです。
もう一つありました。国際化、世界に通用する人材の育成ですね、猫も杓子も掲げているのは。
積極的に、外国に行って交流する、ということを、進学校と自認する学校では、やっています。
そういうニーズに対応する学校があっても、私は止めません。ご自由にどうぞです。
公教育は、それでは困ります。ですから、飽きもせず、同じことを繰り返し取り上げているのです。
自分で考え、動き出すための、きっかけとなるものの発見を手伝うのが、教師の重大な役割のひとつと考えます。
もちろん、基礎学力は必要ですが、それさえも、学ぶことに関心がもてれば、たやすいことなのです。義務教育なら、すぐに取り返せます。
これが出来る教師は、大変な力量と、熱意、使命感が、必要です。
こんなことが出来る教師を、育ててみたくないのでしょうか、公教育は。
ある程度身分保障があり、生活の心配が少ない公教育なら、その気になれば、可能な気がしますが。
そこには指導者は必ずしも必要でないかもしれません。そのかわり、熱心な教員の試行錯誤を許す、懐の広さが必要です。
自分の教育スタイルを確立するまでには、時間がかかるかもしれませんが、それまでも含めて、教育の改善ととらえる余裕が、いま、必要だと考えます。
一点でも多くとる教育を目指すのか、それとも、基礎学力を固めて、自分で、進んで展開できることを目指すのか、公教育の今後のあり方を、しっかりと決めていただきたい。
いま、東京都が始めたのは、一点でも多くとる教育のように見えます。これは、詰め込みと反復練習で、ある程度克服できるかもしれません。
しかし、それは、自身で思考した結果でなく、頭に残らず、至極もろいものなのです。