学歴ロンダリング

たまに立ち寄る、ある国立大学研究者のブログで、大学院博士課程修了者の学力に関する議論が、コメント欄で、展開していた。

このブログ主は、どうも私の恩師とも繋がりがあるようで、うかつなことは書けないのだが、極めて常識的な方のようである。

そのなかで、東大の大学院生に関する批判があった。

その内容は、東大以外の大学から、東大の大学院に進学した者の能力が、低いという趣旨の書き込みであった。

たぶん、書き込んだ方は、東大出身の、国立大学教官のようであるが(私の印象)、こういう書き込みを目にすると、高等教育に携わる者として、がっかりさせられる。

脱力感、というか、救いようがないなあ、という感想である。

ネット上の、学歴ブランド偏重者が集う救いがたいサイト、あるいは、都立進学指導重点校をむやみに褒めちぎるサイトと、同じレベルの書き込みに、私には思えるのだ。

学歴ロンダリングと呼ばれる、日本特有の社会現象が、この種の書き込みの背景にはある。

つまり、出身大学より社会的評価が高い大学の大学院に進んだ者(地方国立大学から東大など)を揶揄する意味合いが、この学歴ロンダリングという言葉には込められている。

所詮、おまえは、地方国立出身なんだよ、というあからさまな差別である。

教員にも、この種の偏見を持っている人が、少なからずいるので、ことはやっかいなのだ。

東大の大学院入試制度が、いい加減なものという前提に立たなくては、この種の偏見は生まれない。

誰でも入れて、修了も簡単だから、最難関の学部入試を突破した内部進学者と、同じ大学院だからといって、一緒にしてもらっては困る、というプライドがあるのかもしれない。

そのプライドに見合うだけの研究業績を上げてくれれば、なんの問題もないのだが。

個人の能力を正しく評価しようとする態度あれば、学歴ロンダリングというような嫌らしい言葉は生まれなかったのだろうが、日本の大学院制度上の問題点が、この言葉を生む原因となっていることは確かだろう。

大学院の入学試験は、筆記試験(語学試験と専門試験)と口頭試問(面接)からなる。どの大学でも、おおむね、同じだろう。

この中には、大学入試のような、基礎学力を直接問う問題はない。そんなのはあって当然、というところから発しているのかもしれないが、語学試験と専門試験は、大学によって、様々な内容とレベルであることは確かである。

研究を遂行する能力があるか、を試験するわけであるが、大学入試のように統一規格(例えばセンター試験や予備校の偏差値など)がないので、大学院を客観的に序列化できない。

ブランドにこだわる人間は、大学院入試が、そして、そんな試験を経て入学した者の能力が、客観的評価を経ておらず、認めがたい、という結論になるのだろう。

だからこそ、東大の学部出身者の院生がやっぱり優秀なんだ、という結論を用意することとなるのだろう。

大学院教育に関しては、無理な定員増など、多くの問題点を抱えていることは確かだが、運用する人間が責任をきちんと果せるかが、カギと考える。

単なるお手伝いとして、安価な労働力としか院生を考えない教員なら、健全な教育は望めないかもしれない。

結論としては、大学院入試を悪者にするのではなく、教員の指導能力と熱意を、まずは問題にすべきではないか。

基礎学力が本当に欠如している者は、現行の大学院入試でも、厳密に運用すれば、十分にはじける。

そして、指導できない者は、大学院教員を返上すべきで、あるいは、院生をとらない、といこともあってしかるべきと考える。

私が進んだ大学院博士課程のある専攻では、その担当教授が責任指導できる院生の数を厳密に定めていて、さらに、卒業後の就職が見込めない場合には、院生をとらないというほど、徹底していたところもあった。

その教授は、ノーベル賞候補であったし(惜しくも受賞を逃したが、在職中に文化勲章を受章された)、ご自身の研究に厳しい反面、丁寧な教育を心がけられていたようにお見受けした。何度かお話をする機会があったが、幅広い見識をお持ちで、自分の指導教官と、思わず比べてしまった(笑)。

学歴ロンダリングなどと、学生に責任転嫁するような、偏見じみたことをいう前に、大学院入試の厳密化と無責任教員の排除を先にすべきではないか。