教育における特権は利権を生むだけ

国際化に対応できる、日本社会を牽引するエリート?を養成することを目標に掲げた、公立進学特化校や公立中高一貫校が矢継ぎ早に設置された。
 
以前から疑問を呈しているのだが、各都道府県の教育関係者の誰が、どのようにして、何人、これまでにエリート?を養成してきたのか、明確に示していただきたい。
 
国際化に対応できる、とは、具体的に何を指すのか、まさか、英語教育、のことだけじゃないだろうが、そもそも、国際化をどう定義しているのか、ほとんどの場合、その内容が曖昧なままである。
 
今、公教育が乗り出したエリート養成を目的とした?大学受験特化型教育は、端的に言うと、特定の集団の利益を計れば、社会がよくなる、という考え方だ。
 
私は、現代社会の日本人には、このような絵に描いたような理想や社会正義を求めること自体難しいと考える。
 
大体、子供のときから、お金のかかる特権的な環境にドップリ浸かってきた人間が、他者のことを思いやり、広い視点から社会を見つめて、社会正義を貫くことなど、私はとても期待できない。
 
今の日本社会が、その証明だと思うが、違うだろうか。
 
明治期からずっと、日本社会は、少しでもいい学校に行くことを目指す教育を推進してきた。
 
都立高校や大都市の府立や県立高校など、特定地域の公立高校の進学実績が落ちたことをことさら取り上げて、教育全体が受験教育を排除していたかのような、誤った情報を流す者がいるが、それは地域性がそうさせたのであって、公立の学校に代わる、さらに有利な受験教育をやる私立校があれば、当然、そうなる運命だったのだ。
 
都立高校が半世紀ほど前に導入した、学校群制度が受験教育を排除したなどと決めつけて、それが原因で東大合格者が減った、と特権的銘柄都立高校の凋落を嘆く者がいるが、以前、このブログで述べたように、経済的に余裕が出来た社会では、受験対策に都合のいい私学への流れが、都立全盛時代においても、すでに始まっていたと考えるべきであり、ジワジワと私学の実績が向上しつつあったことを、なぜだか無視する傾向にある。
 
つまり、有名大学合格のための受験教育、という価値観のもとに教育を取り巻く状況が決まってきたのだ。
 
繰り返しになるが、その受験教育の結果が、今の、利権や支配階層にだけ向いた、利権独裁政治(私の造語)、であり、国民の生命財産が毀損されるような悪政をやっても、誰も責任をとらず、誰も反省し、悔い改めることがない、というデタラメな社会しか実現できなかったのだ。
 
私は、現状の、受験教育をさらに強化して、特定の集団を(それも、富裕層がその多くを占める)税金をかけて特別扱いしても、それが社会全体の幸福を考えるような、真の指導者を養成することには、絶対につながらないと断言する。
 
大体、この受験特化型教育自体、決まった時間内に、与えられた仕事を効率よくこなす、という組織運営に高度に適応した人間を選別するためのものであり、その中心をなす学校が、東京大学、なのである。
 
つまり、官僚組織の運営と繁栄に都合のいい教育がずっと行われてきたわけで、そこには、汗して生活し、税金をせっせと納める国民への配慮は不要なのである。
 
今回の大震災、そして、人類最悪の原子力人災である福島第1原発事故の対応を、多くの国民はどう見ているのだろうか。
 
その責任者の多くが、東大、の出身者であるが、誰ひとり、正しい行動をした者がいない、と私は断言する。
 
悲しいかな、その中でも、心ある人間もいるが、経産省の官僚だった、改革派の古賀さんのように、利権を排除し、国民生活の安寧と経済の振興を計ろうとする者は、いびり出されるというのが、日本社会の実態なのだ。
 
今の親たちが、自分の生きる社会を、もう少し冷静に見つめて、教育のあり方を反省する絶好の機会だと私は考えるが、どうも、相も変わらず、東大、東大、東大、東大、という雰囲気が、公教育を中心として揺るぎないことに、大いに失望している。
 
悪事を働く者を排出した大学を、一体、どこまで一般民衆は容認するのか、延いては、自分に不利益が返ってくるのに、本当にお目出度い国民である。
 
いや、自分の子供をその利権側に潜り込ませることで、利権を享受しようとでも考えている、卑しい人間が多いのかもしれない、このアジアの、一等国病に犯された、米国の植民地は。
 
何時まで続くのであろうか、この、あまりに単純で無反省な、教育を支配した、東大病、という受験競争への揺るぎない信仰は。