都立最底辺校で茶髪撲滅に成功し人気校へ変身させた校長の秘策

教育関係の記事は、本当に久しぶりである。
 
都立の底辺校を(嫌いな表現!)、都立高校一番の人気校にした校長の話である。
 
どうも、こういった、私がやった的な手柄話は好きではない。
 
本人の考えとは違った脚色をしてしまうのが商業マスゴミの常套手段であるから、この校長の真意は、正確なところ分からないが、週刊誌に載せることを承諾したのだから、本人の考えに沿ったものと判断する。
 
学力的には、正反対である、八王子東という都立進学指導重点校の校長も、この週刊誌の記事と同じ論調で、進学実績の大躍進(東大合格者が増えたということ)を果たした改革派校長としてもちあげられ、自身の成功体験を本にして出版までした。
 
その後、その高校は、大学受験のために、本来なら修得させるべき、受験に関係ない科目を履修させず、進学指導に当てていたことが発覚したが、その張本人が、自慢話を本にした校長だったのだ。
 
結果オーライの、受験オタクや金権公教育支持者からは、八王子東のインチキはどこでもやっていること、とか、進学実績を上げたのだからそちらの方を評価すべき、などという意見も出たが、結局、補習で未履修科目の単位を取らせることで決着を付けた。
 
進学指導重点校なのだから、何が悪い、という開き直りもあったが。教育的配慮から、ウソはいけない、ということで、一応、やったことにしたのだろう。
 
まずは、引用から。
 
今、日本は未曽有の苦しい状況に立たされているが、重要なのは、強いリーダーシップ。弱い集団を強くしたリーダーの人心掌握術を見てみよう。ここでは、とある「底辺高校」を改革させた男のケースだ。
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 教育現場の再生は、学校職員だけでなく生徒の変革も求められる難しい仕事だ。鈴木高広氏(68)は、1997年に校長として都立足立新田高校に赴任した。当時の同校は都立の最底辺校といわれ、学年240人中約半数が中退。入試では定員割れの年もあり、「名前を書けば合格する」と揶揄された。「潰してもいい」という雰囲気の中での、いわば“敗戦処理”としての登板だった。
「校舎も本当に荒れ果てていました。生徒は九九もアルファベットもあやふやで、先生もやる気ゼロ。誰もネクタイをしていないのは、生徒に引っ張られて首が絞まって危ないからということでした」
 鈴木氏は絶望と同時にやりがいを感じたという。毎日、勤務開始前の朝7時半に出勤してはジャージ姿に着替えた。
「まずは掃除から始めることにしました。ヘラでガムを剥がしたり、ペンキで落書きを塗りつぶしたり。塀を乗り越えて脱走する生徒を追いかけるのにもジャージじゃなきゃいけないでしょ(笑い)」
 鈴木氏はまず体育教師を味方につけるために空き時間に近隣のゴルフ場を使えるよう手配。生徒の顔と名前を覚えて信頼を勝ち取っていった。
「学校を魅力的にするのはカリキュラムです。優秀な女子生徒を集めるためにホームヘルパー2級の資格が取れるようにした。スポーツ健康系、福祉教養系、情報ビジネス系の3学系を作り、人気が出てきました」
 有名俳優のドラマのロケを受け入れ、髪が黒い生徒だけエキストラで出演できるようにして茶髪の撲滅に成功。謹慎処分を社会奉仕活動に変えた。「総合」の授業では校長自ら教壇に立った。
「お米1合に何粒あるのか実際に調べる授業などを生徒と一緒に取り組みました。校長が率先して現場の仕事をすれば、先生たちも『忙しい』なんて言い訳できませんから」
 2004年には218人が卒業し、入試の倍率は5倍と都立一の人気校に変身した。
「自分が一番汗をかいている自信がありました。自分が動かないで人は動かせません」
週刊ポスト2011年6月17日号
 
引用ここまで。
 
勉学とは無関係なことをやったり、子供のウケを狙ったり、生活習慣を矯正することまで、高校教育に求めるべきだろうか、私は以前から大いに疑問を持っている。
 
サービス満点の都立高校、とでも言いたいのか。
 
親がろくでもない者であることは、想像に難くないが、そんなバカ親の尻ぬぐいを、どこまで税金を投入してやるのか、明確な議論がないまま、この手の学校が用意され、高校卒業資格を取らせるために、それこそ、特別待遇を与えていると思う。
 
面白いのは、学力的には正反対の進学指導重点校や都立中高一貫校も、違った意味での特別待遇を与えることで、その人気?を高めている。
 
要するに、今進行中の都立高校改悪は、両極端に位置する者が、一番得をして、その間にある者は、適当にあしらわれ、あるいは、無理に特色を出そうとしてやっきになり、いたずらに消耗する、という悪循環に陥っているように思える。
 
私は、高校は、勉学するところであり、基本的には、勉強する意志のない者は、違った道を選ぶべきと考える。
 
その違った道を、高校という制度の中に取り入れるのか、という議論が十分に尽くされただろうか。
 
議論なき制度改革であるから、その問題を押しつけられた教員は困惑し、消耗し、やる気を失ってしまうのではないだろうか。
 
つまり、誰かのボランティア精神を期待した、無責任きわまりない制度改革なのである。
 
底辺校に配当された教員の使命感を初めからあてにした制度なのだ。
 
確かに、サポートする人員の配置などがなされているようだが、どれほどの効果があるのか疑わしい。
 
改革推進派は、バラ色の成功物語を用意しているが、果たして、現実はどうなのか、いい話しか聞こえてこないことに、私は強い疑念を持っている。
 
高校は人気を競う場ではない。
 
5倍になれば、学校としては、その中でも毛並みのいいものをとるだろうから、扱いはたやすくなるだろうし、そうなれば、教員の指導力による改善なのかどうか、ハッキリしなくなるのではなかろうか。
 
すべてが曖昧の中で、教員が理想的な仕事をすることで、理想的な人間教育が出来た、と言いたいのだろう。
 
へそ曲がりな私には、つぶさに信じることが出来ないのだ、この妙にドラマ仕立ての成功物語を。