PISAをどう読むか

NHKの教育テレビを見ていたら、京都大学の教授が、PISA、の解釈について自説を開陳していて、その内容は、大いに共感できるものだった。
 
そう言えば、つい最近、朝日新聞で、その最新結果を目にしたばかりだ。
 
PISA、OECD生徒の学習到達度調査( Programme for International Student Assessment, PISA)とは、OECDによる国際的な生徒の学習到達度調査のこと、だそうだ。
 
学力向上運動に熱心な日本の文科省と、教育産業の提灯持ちであるマスゴミは、なにかと、このPISAの結果を持ち出し、教育への危機感を煽るのが、このところの常套手段である。
 
文科省は、学力向上運動の強化を隠れ蓑にした、学校の管理強化と序列化を推進するために、PISAの結果を使う。
 
そして、教育産業が、学力向上競争の推進役となり、お金が転がり込む仕掛けである。
 
ほら、OECD加盟国内で、こんなに日本の子供達はランクが低いんですよ、たいへんです、このままでは、と不安を煽るのである。
 
最新の結果が公表されたが、学力(特定の能力に関すると言った方が良い)の格差が広がって、中間層が、減少しているらしい。
 
当然である、これだけ経済格差に起因する教育格差を容認、いや、推進しているのだから。
 
以前にも記事にしたが、これは、大学教育に携わっているものとして、実感していることでもある。
 
文科省自画自賛しているが、読解力、の向上が見られたらしい。
 
今回の結果は、日本の教育の、一面を鮮やかに描き出している、とは言えるが、果たして、このPISAの結果をそんなにありがたがって一喜一憂する必要があるのだろうか?
 
小国で、少数人数の学級が基本である、フィンランドなどが以前はトップを占めていたが、最近は、少し様変わりしており、アジアの経済発展が、学習環境の改善や親の意識の変化を生み、アジアの学力向上が著し。
 
もっとも、中国のデータは、全く客観性がない、一顧だにする価値もなく、特別対策された金満地域の結果を報告するという、極めて姑息な手段を講じている。
 
PISAは、知識の習得やその運用能力など、人間のある能力を客観的に測ることはできると思うが、それはごく一面であって、PISAでは計測不能な、精神性や情緒、何かを発見し、そこから発想するという、人間の本質に迫るような能力、すなわち、数値化しにくい要素に関しては、十分に評価できないと考える。
 
であるから、PISAの結果で右往左往するのでなく、人を育てるということはどういうことなのか、という基本概念をしっかりと構築し、その実現のために、例えば、教員数を増やしたり少人数学級にするといつたような、最良の教育環境を整えることが必要なのだろう。
 
その根幹となる思想が欠落しているから、数値化が容易で、客観的と、鼻息の荒い教育関係者や優秀児の親たちの愛してやまない、ブランド学校、への進学実績でしか、教育の達成度が評価されないという、極めていびつな状況に陥っている。
 
東京都がその先頭を切って、公教育の場を金儲けに結びつけ、金まみれにしているのだから、救いがたい状況である。
 
この国では、PISAの結果が、学力のすこぶる優れた奴隷と、学力の劣る奴隷の育成に悪用される危険性があるので、注意が必要である。