公教育と地域の振興

以前の記事が、表示異常なので、再投稿します。
 
以下の文章は、ある教育関連のホームページを開設している方が、公立の中高一貫校の問題点を取り上げた記事に対する、私のコメントです。そのサイト運営者の考えに、強い共感を覚えたのです。地域性を考慮せよ、ということが述べられていて、同じ考えを持った人がいることを知り、とてもうれしくなりました。地域性と公教育を結びつけて論じることは、ほんとうに、少ないんですよね、最近は。都立中高一貫校は、地域性を無視していることは明らかですからね。子供の教育に熱心で、成功していると信満々の、鼻息の荒い親御さんには、何か問題でも、といったところでしょうけど。
 
ここから、コメント:
私も全く同じ内容のことを、自身のブログで主張し続けております。都立中高一貫校の最大の問題は、その設立の趣旨にあり、カリキュラムや、すでに進学実績を上げている学校を利用した点など(教育力に自信がないのでしょう)、明らかに、受験予備校だということです。そして、特別対策した子供でなくては、ほとんど合格は無理という状況であることから、経済的に、ゆとりある社会階層でなくては手が出ない、つまり、経済格差による教育格差を、容認、いや、推進している点です。公教育は、地域の発展と、教育の機会均等、を支える使命があると考えます。これらをすべて無視し、受験競争レースに参加することにより、ごく少数の者の便宜を図る特権的予備校が、今流行の公立中高一貫校の実態ではないでしょうか。意図的にそうした、と考えるべきと私は思います。公立とうたっていますが、進学条件は私学と何ら変わらず、また、受験競争に勝つことが教育だという、偏った思想で構築された学力養成機関です。私は、学校だとは考えていません。不思議なのは、だれも、これに反対しないことです。いま、公教育に求められているのは、少数の受験向きの子供への対策ではなく(勝手に勉強するので放っておけばいいのです)、大多数を占める、普通の子供たちへの、きめ細やかな対応です。なぜか、日本の親は、自分の子供が、特別扱いされることばかりに関心があり、大多数の普通の子のことに思いがいきません。不思議ですね、自分の子供に自信があるんでしょうか。普通の人間が社会を支えている事実を、もっと大切にしなくては、この国は、ワガママな王様と奴隷だけになってしまいます。そうしたい人たちが、活発に動いたことが、公教育に荒廃をもたらしたと、考えます。
 
 
私の、いつもの主張ですね(笑)。
 
まあ、東京都としては、いやなら辞めれば、くらいにしか考えていないでしょうが、いつもの議論になりますが、なぜ、有名大学進学実績を最大の目標として学校のコンセプトを作るのか、私には、理解できません。もっともなことが、学校の経営目標(いやな表現!)、に書かれていますが、どれも金太郎アメ的で、かつ、それを達成するための手段も実績も曖昧なものばかりです。世界に通用するエリート教育とは、いったい何のことでしょう。そもそも、エリートをどう定義するかで、教育の中身が、大きく変わると考えます。そんな力量が東京都の先生の誰にあるのか、そして、そのための予算はどう都合つけるのか(本来なら受益者負担でしょう)、隠さず明らかにして欲しいものです。
 
地域活性化のため、通学区の指定のある中学と高校をリンクさせて、多様性のある集団で、中高一貫教育の経験を積んで欲しかったです。はじめから受験の成功が目的なので、こういった発想が全く欠如していたのが、公立の中高一貫校です。何のための中高一貫教育なのか、が有名大学合格実績でしか語られない教育現場とは、殺伐たるものではないかと、心配します。たぶん、都立中高一貫校に配置された教員は、受験の成功へのプレッシャーは、相当なものでしょう。それでしか評価しない、という雰囲気が都教委にあるからです。その圧力の放出先は、生徒に向けられるのです。そこから、豊かな人間性や、多様なものの見方を持った子供が育つ可能性は、私には見いだせません。昔ながらの管理や圧力による教育こそが、競争力のある人間、そしてエリート?を育てると信じてやまない親御さんも沢山いますが、さて、そんな教育手法で育てられたエリートが主導して運営した結果が、いまの日本であることを、どう評価するんでしょうか、その方々は。以前にも申し上げましたが、組織運営を円滑にする人材を育成することが目的である教育を強化しても、奴隷を増やすだけで、国を預けられるリーダーや、独創的なものを生み出す人間を育てることは難しいということは、証明済みなのです。まさに、日本のいまが、その証明なのです。