もう少し余裕を持って、世界一じゃなくても生きられる

どうして世界一である必要があるの?というレンホウ議員(中国系か?)の素朴な疑問が、一時話題になった。
 
先進国の仲間入りを果たし、それを維持するためには、どうしても未来への投資が必要なのだ、という答えが返ってきそうだ。
 
科学をやっている者として、世界一、に理解を示したいところだが、私は、つつましくも、国民が安全で、幸せに、暮らすために、何が一番必要か、という考えで、仕分け、をすべきだと思う。
 
いや、ちがう、勝ち残ることに意味がある、という威勢のいい人たちもいるが、たぶん、その人が置かれている現状で、微妙に、考え方が異なってくるだろう。
 
威勢のいい人たちに考えて欲しいのは、一握りの王様と、大多数の乞食、では、社会は沈滞するということだ。
 
競争を勝ち抜いて、あらゆる者を蹴倒して、上に立った者たちは、その過程において、人間的成長や人格の陶冶が、必ずしも適切に行われていないことがある。
 
なぜ、勝ち残りばかりを、と引っかかるひともいるだろうが、当然である、社会の中枢に座る可能性が極めて高いからだ。
 
都内の、どこぞの学校の生徒のように、中学生時代から、学力で、そして、所属学校のブランドで、人間を切り捨てる愚か者に、日本の将来を託したいと思う国民がどこにいるだろうか。
 
そのような愚か者が育つ理由は、親がそういう思想だからであり、それに素直に感化され、自分を省みることが出来ない子供は、本当に不幸である。
 
ひとを従属(いや隷属か)させることだけに意味を感じる、幼稚なてっぺん野郎を増殖させないことが、日本の教育に求められているし、社会が、そういう雰囲気を持つ必要があると思う。
 
歴史的に見て、果たして賢明な選択だったかは議論百出ではあるが、明治以降に山縣有朋らによって創作された神話に基づき、国民に多大な負担を強いて、多くの犠牲を払い、せっかく、そこそこの経済発展と、文明化、を成し遂げたのだから、少し余裕を持って、社会改革を行う時が来たと考える。
 
社会改革を下支えするのが、教育であり、そこにこそ、すべての面で、余裕、が必要なのである。
 
教師を増員し、教務を支援する職員を別に配置し、学校の事務処理から、教員を解放し、生徒と向き合う時間を増やすことが、今一番必要だと考える。
 
教え方が上手い、と言う理由で、雑用のない塾の先生を学校に入れることによって、子供たちは、塾講師とのふれあいを重要視するようになる、と聞いた。
 
学校管理を強化することによって、結果として、雑用という名の事務処理事項が増大し、教員は、ますます、生徒から引き離され、代わりに、塾の先生が子供たちと時間を共有し、本来、教員のやるべきことを肩代わりするようになる。
 
こんな事態は、おかしくないか。
 
以前から、ゆとり教育批判とセットで、教員の質、が取りざたされているが、生徒と向き合う時間が増えれば、自然と、本来やるべき教育に真剣に取り組む余裕が生まれ、そこから、教員ひとりひとりにあった、教育への取り組み方、が形成できるのではないだろうか。
 
大学教育に携わってずいぶんになるが、教育は試行錯誤と経験である、と私は考えている。経験する余裕を与えることが必要であり、そこに、適切な助言や事例を示すことが、管理する者が心がけるべきことだろう。
 
教員も、上下関係では軋轢が生じ、ギクシャクするが、志を同じくする仲間との研究会や研修会などを通じて、自分を磨く姿勢も必要だと思う。
 
ただ単に、教員免許更新制にしたり、研修を強要したりしても、ひとは圧力だけでは磨かれないのだ。
 
そこを教育を取り仕切る者が理解できていないから、なんでもかんでも、規制を強化して、一見、管理しやすいような制度にしたがるのではないか。それは、決して、ひとの向上心や、自発性、意識を、無理なく高める制度ではないと考える。
 
教員や子供をがんじがらめにして、豊かで、伸びやかな知性(いや知力か)が形成されるだろうか、私は疑問に思う人間である。
 
沈滞しているときだからこそ、未来を見つめて、構想すべきなのである。
 
経済発展したときに、悪事をすべて見逃してきた結果が、この国の今なのだから。