30冊くらい関連書籍を読んだ。
本棚には入りきれないので(もうずっと前からそうだが)、廊下に積んである。
入手困難な本は、アマゾンで購入したり、古本屋の通販を利用した。
やりだすと止まらないたちで、まさに乱読である。
静かなノモンハンに限らず、私は、読み始めるに当たって、本の目次、あとがき、解説を、まず最初に目を通す。
いつもこのスタイルで読書している。
この方が、頭に残るようだ。
本の内容の詳細は割愛するが、今回、あとがきとして、著者の伊藤さんと、司馬遼太郎さんの対談が載せられていた。
この対談は、短いものであったが、その内容は濃密だった。
軍人、とくに戦争を嗜好し、その実現のために天皇さえ利用するという悪行を重ねた上、多くの無垢な犠牲者を出しながら、自らは生きながらえ、何の責任も取らなかった、旧日本軍高級参謀への、痛烈な批判が、率直に語られていた。
この対談は、私には、大いに共感できる内容だった。
血管が切れるほど、と表現していたが、それほど司馬さんは憤りを感じていたようだ。
その怒りがあまりに大きく、かつ、その背後にあるものが、強大な悪(絶対的な悪)であるため、かえって司馬さんは、ノモンハン事件を書くことに躊躇していたようだ。
氏の軍部批判は、あちらこちらで目にしたが、ここでのそれは、最も苛烈である。
ノモンハン事件を演出した参謀たちを、日本史に、これまで登場したことのない者たちと断じるという、最大限の攻撃を加えていることからも、氏の思いの深さ、激しさが伝わってくる。
ノモンハン事件を企図した辻、服部という陸軍参謀に、司馬さんは悪魔をみていたようだ。
その思想と行動は、あまりに人間離れしていて(司馬さんの基準でということ)、まさか、日本にこんな人物が登場するとは、思いもよらなかったということらしい。
一方、著者の伊藤さんは、この本で、戦場での人間真理を、感情に流されず、不要な脚色を排して、丁寧に描いており、それが、かえって、戦争で人が死ぬことの現実とその意味を、読む者の心に深く刻むこととなっていると感じた。
この対照的なスタンスで、ノモンハン事件を見つめる2人の対談は、絶妙なバランスで明快であった。
戦記物であるが、了読したとき、不思議と気が重くならず、行きすぎた怒りにとらわれることがなかった。
昨今、日本が勝っていたと、ノモンハン事件を、軍事の比較で議論する低俗な輩が出現したが、その者たちに、私は旧日本軍の高級参謀の臭いを感じる。
きっと、その者の思考法では、伊藤さんが静かな筆致で描いた人間の死を、ただの数(数字)と認識するだけだろう、ソ連軍の死傷者の方が多かったというように。