半藤一利さんの、山縣有朋、を読んだ。
著者は、山縣を嫌っている。
それをはじめに断って、この本は始まる。
山縣有朋ほど、日本の近代化に、深く関わった人物はいない、という内容であるが、その強引な手法と、富国強兵政策の実現には、あらゆる手段を講じる、というフィクサーとしての山縣を、時に驚嘆し、ときに驚愕し、またあるときには、痛烈な批判をもって、描いていた。
この、日本近代史の中では、とりわけ人気のない人物は、今日至るまでの、非民主主義的な日本社会を構築した功績(皮肉!)において、群を抜いている。
山縣有朋があってこその、軍隊のような、一分の隙もなく組織化された日本村社会の完成だったことが、よく分かった。
その意味で、著者も、一定の評価を与えていたし、明治維新の激動期には、認めたくはないが、必要な人材であったのだろう。
軍国主義者で、民主化を阻止すべく、陰湿な策謀を巡らしたあげく、その悪影響が、昭和の軍閥の暴走につながった、とこれまでは聞きかじりの知識で、この人物を切り捨てていた。
しかし、よく考えてみると、そんな生やさしいものではない。
この人物の作った、社会を高度に組織化し、支配者の意のままに国民を操り、隷属させるための市町村制や官僚制度など、あの戦争を経ても、未だに完全なまでに機能している事実を、この本を読んで、思い知らされた。
民主党が大勝しても、山縣の作った官僚制度と、派閥による利権独占などは健在であり、山縣は、草葉の陰で、大喜びしていることであろう。
山縣有朋、その思想的伝承者が、日本の中枢を、未だに、完璧なまでに押さえていることに、驚愕する。
明治期の活動家の中で、この人物しか残らなかったことが、いまの日本社会の有り様を決めてしまったのだと、感じた次第である。
戦は、最後まで立っていた者が勝ち、ということだ。