もっとも都立高校を選択する社会階層は、いつの時代も変わらない

小尾乕雄、1967年、都立高校の学校群制度を、強引に推進した東京都の教育長だった人物だ。

つまり、都の教育のトップだった人である。

学校群制度は、東京都の高校教育を牽引していた都立高校の地盤沈下(ようは東大合格者が激減したということらしい)をもたらしたという評価がほとんどで、都立上位進学校出身者には、自校のブランド力の低下(東大合格者が減ったということ)の張本人として、憎悪の対象となっている。

私も、以前、学校群制度に関して、このブログで取り上げたことがあるが、一部分は、上の評価が当たっていると考える。

ただし、学校群制度批判の議論では、上位進学校のことだけが取りざたされすぎており、歪んだプライドを感じる。

小尾氏の手法には、強引さが目立ち、権威づけのためか、元東大総長、学校長経験者、有名評論家、大新聞社(これが学校群制度の宣伝担当となった)などを、制度改革の検討委員として、一応の体裁は整えたあったが、起案からわずか1年いや、実際はもっと短期間に、氏の退任に合わせるがごとく、この大改革は実行に移された。

学校群制度では、それ以前の、学区合同選抜方式の枠組みは維持しつつ、学校を学力によって、一流、二流、三流と、明確に分類し、それぞれに2から3校を配置することによって学校のグループ(群)が設けられた。

生徒は、学校ではない、群を受験するという、信じられない方式で選抜試験を行った。どこの学校に行くかは、合格発表当日に分かるという具合だった。

とくに一流校には、それまでの上位進学校を充当し、加えて、女子の名門校がある地域では、それを必ず一流校のグループに入れた(61群に小松川高校が入ったとか、新宿高校駒場高校が一緒の群になったなど)。

二流以下は、下位校を二流校と組み合わせることで、そのグループ全体のレベルに合わせようとした形跡がうかがえる。

例えば、江戸川高校は小岩高校と64群を形成したが、これなどは、その意図がハッキリ現れているように思える。

東京の隅田川を挟んで西側、山手線の内側から西に関しては、学校群制度の施行と同時に、その問題点を嫌った親や生徒の、都立高校離れが起こった。

東大を目指すことが目的だった日比谷は、とくに顕著であった。

当時、東大への王道であった、日比谷が、正当な学力ではなく、運で、進学が決まり、なおかつ、受験指導も制限が加わるとなると、一気に、志願者が減少し、志願者の学力も低下したらしい。

逃げた者たちは、国立大学附属高校や、当時、すでに、めざましい東大進学実績をあげていた私立高校(中高一貫校が多い)を受験するようになった。

さらに、早期に受験教育が開始される中高一貫校への流入が起こり、高校受験から中学受験へと、受験競争が低年齢化した。

私は、学校群制度改革以前に、すでに、都立高校離れを思わせる徴候が出つつあったのではないかと思う。

受験をある程度想定して、教育環境を整えることが、経済発展と共に可能になりつつあったのが、学校群制度導入期あたりではないだろうか。

それを実現できる社会階層が増加することにより、自然と、都立高校離れは起きた、と考えるのだ。

ただし、学校群制度は、受験教育の排除という(何を受験教育と定義するかが曖昧であるが)たぶんに歪んだ平等主義的思想が背景にあることから、それを嫌った富裕層が(能力差は当然で、それによって評価され、正当な報酬を得るべきと考える者たち、と言い換えた方がいいかもしれない)、一斉に逃げ出したため、日比谷などの急落が起こったのだろう。

これらの複合要因により、都立の特定進学校難関大学(東大)合格者は、減少の一途をたどることとなったが、とくに、東大への王道として、全国の、腕におぼえのある者に人気だった日比谷は(越境や地方から東京にわざわざ出てくるなど、いまの開成と同じような状況)、学力で、その入学を勝ち得る保証がないためか、人気が急落することとなった。

それを肩代わりしたのが、開成高校麻布高校であろう。

難関大学受験に関しては、主役が公立から私立と国立に移っただけであるが、それも、地域性がかなりあると思える。

詳しく調べていないが、富裕層が多く、教育に熱心だった、山手線の内側とその周辺と、下町地区では、大きく状況が異なっていたようだ。

私は、第6学区だったが、この地域は、江東、墨田、葛飾、江戸川にまたがる学区で、そのトップ校は両国高校であった。

学校群制度により、両国は、墨田川と女子の最上位校だった小松川と61群を形成した。

私が、大学受験時期には、東大合格者に関しては、両国が20名前後で一番多く、それに隅田川小松川を加えて、61群全体で50名弱の合格者だったのではないだろうか、もう少し、少ないかもしれないが。

東大、東大と、私も好きではないが、世の中ので、比較的説得力のある指標として受け入れられていることから、使っている。

学校群以前は、この学区の東大合格者は、ほとんど両国が出しており、毎年40から50名だった。

つまり、この学区(第6学区)では、受験という評価軸だけに注目すれば、きれいに61群の3校に、優秀な生徒が、分配されたこととなる。

両国がトップだったのは、旧制中学時代からのブランド力と、東大合格のノウハウが、他校よりすぐれていたためかもしれない。

学校群制度施行からしばらくは、第6学区では、学校選択に関して、大きな変化はなかったように見える。

私の中学でも、上位層は、ほとんどが都立に進学したし、模試で上位5名のうち、1名だけが難関私立大学附属高校に進学したが、あとは全員都立高校に進んだ。

それは、この地域が、下町であったことと、経済的に苦しい世帯が、隅田川より西に比べて、多かったことが原因ではないだろうか。

70年代に入っていたが、私の家を含めて、いまだに、選択の余地が都立あるいは国立しかない、という家が多かったのだろうと推察する。

その反対に、経済的にも余裕があり、多くの選択肢がある地域では(例えば開成に通学しやすいなど)、優秀層の都立離れが加速したのだろう。

ただし、この都立離れは、経済的にも比較的余裕がある家庭の、学力優秀な生徒において、とくに顕著だった現象ではなかろうか。

昨今叫ばれている都立高校の復権とは、結局は、優秀な生徒を対象にしたものであり、この優秀層を取り込むことで、見た目の進学実績をよくし、教育が充実しているかのような印象を植え付けようとする、たぶんに、パフォーマンス的な要素を含んだものと考える。

都立高校の最大ユーザーとその社会階層は、大きな変動はなく、制度改変によらず、その階層に属する者は、都立を選択し続けているのではなかろうか。

都立高校の使命は、どこにあるのかを、十分に考慮した改革でなくては、最大ユーザーの属する社会階層が、不利益をこうむることとなる。

全体のレベルアップなど考えてもいない改革を強引に進めても、特定階層へのサービスに終わり、経済格差が学力格差に繋がるという社会現象を、さらに助長するだけである。

冷静になって考えて欲しい。

日本社会は、どうなって欲しいかなのである。

それを、教育を通して考えるべきなのだ。

一握りの者がより良い教育環境を得て、よい社会的地位をしめ、社会を支配する、という大きな格差を容認する国を目指すか、それとも、国民全体に、教育の機会均等が保証され、全体的な教育レベルの高さを維持し、国民全員が、大きな格差もなく、安心して生活できる国を選択するか、この2つのうち、どちらを選ぶか、いま、社会変革が起きようとしている、このとき、しっかりと決めなければならない。

誤解なきように断っておくが、私は、学力差はあってしかるべきで、そこから生まれる、ある課題を処理する能力の差を、当然のことと考える者である。

そして、その能力差によって、活動の場が異なることは、自然なことと考える。

しかし、経済格差によって、能力の発揮が阻害される社会であってはならないと考える。とくに、公教育では、あってはならないことである。

加えて、能力の優れた者は、大多数の普通の人に対する責任を負うべきと考える。

なぜなら、能力差が容認された社会では、能力のある者は、経済的な安定と社会的地位が約束される確率が高いからである。

社会が、バックアップしてくれていることを、能力のある者は真摯に受け止めるべきだ。

IT長者?なる自己中の輩が、社会をかき乱したが、特定分野に関する能力には長けているとは思うが、あの者たちは、社会という観点が大きく欠如していたのではないか?

教育に、社会の動向が、もろに反映されることを、どれだけの人が深刻に受け止めているだろうか。

多くの者が不利益をこうむる改悪を、お得、と短絡思考し、1つの価値観に右へならえして、一斉に同じ方向に走り出している教育の現状を、このまま放置することは、多くの国民にとって、決して、安寧な生活を保障するものではないと、私は考えるのだ。

語学教育が国際的に通用するエリート教育などと、大いなる思い違い(米国に洗脳されているとしか思えない)を捨てて、民主的で、落ち着いた社会を構築すれば、自ずと才能のある者が無理なく育ち、社会を牽引していくようになるだろう。