雑記

人のことを思いやる気持ちを持ち合わせていない、エリート?(高学歴者?)をいくら量産しても、個人や、そのエリートの出身階層にとっては、都合がいいかもしれないが、一般民衆にとっては、なんの役にも立たない。

それが、戦後教育を振り返ってみたときの、私の結論である。

これだけ社会が弱者を切り捨て、特定階層への便宜を図るように加速度的に偏向したその原因は、教育にあると考える。

教員、教育産業従事者、教育行政関係者は、現在の日本の社会情勢から、教育というものを見直すという視点が欠けているように感じる。

それどころか、東京都の公教育のように、経済格差から生じる教育格差まで是認し、それを正すどころか、さらに促進する教育改悪を、現都知事の下、強引に推し進めている。

たった数校(いやHという1校かもしれない)の進学指導重点校や、受験シフトの都立中高一貫校のために、その他の都立高校が犠牲になっていいはずがない。

この考えは、自分に過剰な自信がある成功者?(私に言わせれば精神的田舎者)から構成される集団には、共産主義思想!とか言われて、忌み嫌われる。

例えば、東京都は、知事の号令で、この共産主義思想?の教育現場からの排除と、優秀?な子供に特化した教育行政を選択した。

日本社会全体が、権威とかブランドを崇めたてまつり、教育機関の序列化とそれによる差別を強めている。

お金がない、というのが差別化の理由になっているが、他国の身勝手な世界戦略には、湯水のごとくお金をたれ流す現政権のやり方は、とうてい納得のいくものではない。

東京都にしてもしかりだ。

福祉を大幅に削減したあげく(都立の医療機関が大変なことになっている!)、新銀行などといった得体の知れない金融機関をでっち上げ、税金をなんの反省もなく、躊躇もなく投入している。

学歴ではない、個人の能力を評価する方向に社会がシフトしつつある、と言われていたのは、いつ頃だったろうか。

何でも平等という歪んだ民主主義は、排斥されてしかるべきだが、社会全体のポテンシャルをあげ、より豊かで安定した社会を構築しようという考えを口にする人がいなくなった。

社会全体が安定してこそ、個人の幸せが保証されるものだと、私は考える。

さもなくば、王様と奴隷だけの社会となり、希望のない、それこそ個人の能力の発揮できない、閉塞しきった国となるだろう。

エリート教育に名を借りた受験教育では、精神的田舎者を増産するだけで、この国の教育は救えないし、それによってエリートの称号を得た者では、まったく役に立たないことは、すでに証明済みなのだ。

この国の行方は、ひとえに、教育にかかっている。


追記:Hと伏せ字にしたのは、常ならざる関係者がいるためである。