先取りの果てに

昨今は、先取り教育による、受験対策が、教育界を席巻している。

小学生の頃から、ずっと、やり続けて、そのあげく、大学で、就職活動も、先取り、ということらしい。

最近、文部科学大臣が、早期の就職活動を、規制するような発言をしたが、ここまで、他の人を出し抜く癖がついた若者を、今更何とかできるのだろうか。

教育が、受験という評価軸でしか語られなくなって久しいが、その結果として、学問の意義を突き詰めたり、自分で、とことん勉強する、といったことが影を潜め、点取り技術だけに終始するといった、およそ、学問とは言い難い状況にあるのが、日本の大学かもしれない。

先取り学習が必要で、もしかすると、よい結果をもたらすかもしれない、と思われる子供は、全国にそう多くないだろう。

その子たちを対象にして、ある種の英才教育を実施することは悪いことではない。

しかし、大多数の子供は、無理して先取り学習するよりは、時間をかけた方が、その理解も深くなるだろう。

義務教育なのに、中高一貫校があったり、私立と公立では、カリキュラムが大きく異なっていたり、一体、日本の教育制度は、誰か統括しているのか、皆目見当がつかない。

私立は好き放題に、多くの子供にとって、消化不良な先取り教育を繰り返し、公立は、私立に、受験で後れをとるまい、とばかりに、私立をまねた受験教育(予備校の学内導入など)を、堂々と始めるなど、日本の教育は、受験で一点でも多くとるための教育に、変質してしまった。

義務教育までは、私立も公立も、一律、同じカリキュラム、学習内容を統一し、落ち着いて課題に取り組めるように、子供たちにゆとりを与えたやることが、いま、必要ではないか。

このまま、人を出し抜く教育を展開していたら、とんでもないギスギスした、人情のない、社会ができあがるように感じるのは、私だけだろうか。