戦争が足りなかったから(村田蔵六)

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久しぶりに、司馬遼太郎の「花神」を読み直しました。

ついでに、ビデオも購入し、総集編ですが、見ました。

総集編は、所詮総集編ですね、いささか消化不良でした。

本の中で、村田蔵六(写真の人物、後の大村益次郎靖国神社の開設者で、近代軍制の祖)は、封建的な階級社会をぶち壊し、真の革命を成就するためには、国内を革命の火で焼き尽く必要がある、という考えであったと、記述されています。

小説ですから、その真偽は、明確ではありませんが、明治維新は、戦争が足りなかった、というのが村田蔵六の見解のように書かれています。

国が内戦で、徹底的に破壊され、その上で、新しい、社会秩序が作られる、と村田蔵六は信じていたわけですが、彼自身の天才的戦略によって、戊辰戦争は短期間で、官軍の圧倒的勝利で終わりました。

村田蔵六自身、いわゆる百姓医者の出身だったわけで、武士を頂点とする階級社会に批判的だっただろうことは、想像に難くありません。

彼は、武家になることを渇望することがなかったようですので、武家の社会を、批判的にみていたと思われます。

村田蔵六の革命思想に従えば、多くの悲しみに直面し、社会を思い、人間の本質は何か、を考える機会が十分なかったので、明治維新は、封建体質を残した、薩長政治という不完全な形になってしまったということなんでしょう。

ヨーロッパの市民革命とは異なり、明治維新は、武士階級以外の参加が、極めて少なかったように思われます。

長い封建時代にどっぷりつかって、武家以外の階級の人々は、社会体制に対する批判的な精神をそぎ落とされていたのかもしれません。

面白いのは、明治維新の原動力となった人の多くは、武士階級ですが、それも、下級武士だったことです。

彼等は、しかし、結果として、武家中心の社会という枠を踏み出すことは出来なかったのです。

武家の社会で出世するという、狭い概念から抜け出すことが出来なかったからだと思います。

その殻を破りたい、という大局から明治維新に関わった人たちは、ことごとく、暗殺されてしまい、結果として、小者で暗殺者、狭量で高慢かつ猜疑心の強い者が、生き残り、以後の社会を自分たちの都合のいいように造ったと、私は考えます。

ですから、薩長政治という武家の政治が、その後、いや、現代までも、延々と続くこととなるわけです。

権力構造の中に入り込んでいた階級が(武家)、結果として、得をしているのです。

これがおかしいことだと、明治維新の庶民が騒がなかったのは、村田蔵六の言うところの戦争が足りなかったから、なのでしょう。

支配構造の骨組みが、継承された形ですね。

明治維新は、莫大なエネルギーを消費しました。

それは、徳川による封建政治によって、うっ積させられたもので、徳川家に強い反感を持つ薩摩と長州が、その主導をしたことは、まさに象徴的です。

とくに、薩摩の指導者は(島津公でなく)、徳川を打ち倒して、自分たちが天下を取ろうと考えていたのでしょう。

だからこそ、西南戦争という形で、その不満が噴き出したと思われます。

結局、中途半端な革命であった明治維新の問題点が、現代にまで影響し、官僚主導の、国民を愚弄した治世が続いているのではないでしょうか。

武家以外の階級の人々には、封建領主に苦しめられ、不当な扱いを受けた、という切実な状況が、あまりなかったのでしょうか、お上がなんとかしてくれる、という考えがいまだに強く、政治は、自分たちのものだ、ちゃんと考えなければならないのだ、という視点が日本国民には希薄です。

アメリカの南北戦争のような状態を避けたい、という考えもあり、革命の火の手はそこそこで消えてしまいましたが、それが原因で、真の民主主義の形成に至らなかったという考えは、たとえ小説に書かれていることであれ、とても共感をおぼえるのです。