都立高は4年制だった

学校群以前、都立高全盛時代(1960年代まで)、都立高校は4年制だ、と言われていました。

つまり、1浪は当たり前と言うことです。

確かに、あの日比谷にしても、東大などの難関校には、浪人が現役より圧倒的に強い傾向にありました。

1浪と言っても、実は出身高校が予備校と同じ機能を果たしていて、補習科という名前で、浪人生を集め、受験対策をやっていたのです。それで4年制というわけですね。

費用は、格安だったと聞きました。たぶん、テキスト代くらいだったのではないでしょうか。

全ての都立高校に補習科があったかは不明ですが、難関校希望者が多い上位校にはあったようです。

私の高校時代の恩師も、これに関与していたそうで、学校群導入で有名なオビトラの教育改革の際に、受験教育の排除という名目で、補習関係の一切をやめさせられ、さらに、訓告(訓戒だったかも)の処分を受けたそうです。

公が予備校の真似をするのはけしからん、という議論を宣伝し、補習科を社会問題化した政党があったそうです。

何でも平等という戦後民主主義の風潮にも後押しされ、偏向的なエリート教育と決めつけられた都立高校の受験対策や、卒業後の補習科は、呆気なく廃止となりました。

本当にもったいない話です。都立高校には、多様な社会階層出身の生徒が在籍しています。経済的に恵まれない者にとっては、都立高校に進学することは、補習科の存在も含めて、上級学校への道を切り開く、またとない機会だったのです。

裕福な家庭の子供でも、都立高校に進学しました。そして、多様な社会階層出身と生活を共にすることで、世の中の複雑さを身をもって体験したのです。社会勉強に大いに役立ったのです。

その後は、都立の凋落と、国立および私立の中高一貫校の台頭、現在の中学受験ブームと続くわけです。

当時、都立高校の入り口、つまり入学試験は、幾多の変遷を経て、9教科全科目を試験していました。

当時を知る人の話では、基本的にはセンター試験のような○×式だったようで、決して難問はなく、かといって、知識や思考能力を問うには、よく練れた共通問題だったそうです。

つまり、入り口はとても広かったのです。学校の授業をしっかり理解していれば、塾などの特殊教育を受けなくても、対応できる試験だったのです。

都立上位校は、合格最低点が800点を超えていたそうですから、満点近い生徒が多くいたと思われます。

選抜方式は、学区合同選抜方式だったので、今と事情が異なりますが、それにしても、学力さえあれば、志望校に入学できたわけです。当然のことですが、問題がなかったわけではありません。

そんな緩やかな選抜方式で入学した子供達も、高校時代に鍛えられ、大学受験に対応できる学力を身に付けていきました。そして、例え、現役で失敗しても、補習科という救いの道があったのです。

間口を広く取り、子供達を過度の受験勉強に駆り立てない状況で、都立高校入試をやることは出来ないものでしょうか。

もし、初等から中等教育における私立や国立の存在が、教育体系全体をゆがめ、かつ、健全な子供の成長に有害であると考えるなら、公教育だけ弄くるのでなく、私立や国立にも、強制力を持って教育改革を実施する必要があると考えます。

教育に、私立も公立もないのです。すべて、どこかでつながり、お互いの影響を与えあっているのです。

教育再生会議で、ノーベル化学賞学者の野依先生が提案した、小学生の中学受験を目的とした進学塾禁止を、本気で議論するときだと、私は考えます。

現実とは遊離しているという批判は覚悟の上ですが、野依先生の考えに、私は惹かれます。共感できるとことがあるのです。

野依発言は、以前、ブログの教育のところで、取り上げたことがあります。

超階級社会の実現に動き出している支配層の思惑を、普通の階層(微妙な言い回しですが)以下の親たちは、このまま黙って受け入れるのでしょうか。

そして、高額な教育費を、出費させられ続けるのでしょうか。その利益は、上流社会に還元され、その階級の再生産に使用されるのです。まるで、奴隷ですね。教育奴隷とでも名付けましょうか。

教育奴隷に組み入れられつつある自分の無力さに、イライラする毎日です。

思い切って決別したいのですが、目の前にいる子供を思うと、そう簡単に行かないのです。子供を人質に取られている感じです。