地下鉄(メトロ)に乗って

久しぶりに、文学の話です。

浅田次郎の、「地下鉄(メトロ)に乗って」を読みました。

ほんと、久しぶりです。

本屋に、旧版(徳間文庫)と一緒に、講談社文庫版がうずたかく積み上げられていました。

映画が、もうすぐ封切りになるからでしょうね。

私も、映画に触発されて読むんですけどね(笑)。

雑用が終わり、夜中に読み始めました。

区切りのいいところでやめようと思っていましたが、一気に読んでしまいました。

おかげで、寝不足です。でも、読んで良かったと思います。

久しぶりに、とても切なく、でも、すがすがしい、不思議な気分になりました。

私の頭の中では、小説の場面が、読んでいる間中、映画のように進行していきます。

自分の実体験と、創作で、物語が構成されていきます。

この作品に関しては、首都圏に住んでいて、良かったと思います。

頭の中で、小説の場面が、かなり正確に構築されますから。

浅田作品で、一番気に入っているのは、「角筈にて」なんですが、「地下鉄…」も、浅田ワールド?の原点と言われるだけあって、いい作品ですね。

過去と現在を行き来し、主人公の真次とみち子にまつわる色々なエピソードが展開していきますが、私は、この作品は、男と女の愛がテーマだと思いました。真次とみち子の愛です。

人を愛することは、自分の命さえも、投げ出す覚悟がいる、という激しい愛のかたちを、この作品に感じました。

愛する人のために死ねるか」、という問いかけが、最後になされていて、その究極の愛が実行される場面では、心がとても波立ちました。

私、この愛に関する大命題を、以前、曾野綾子さんのエッセイで読み、いまだに答が出せずにいるからです。

過去と現在を行き来する、浅田ワールドですが、そこに登場する過去のエピソードはすべて、最後の、究極の愛に向けての伏線であったわけです。

その悲しい結末を、途中から予感することが出来ますが、まさか、究極の愛、というかたちで、決着させるとは、予想外でした。

誰しも過去を振り返るときはあると思います。そして、あの時、こうすれば良かった、と後悔の念に駆られます。

過去は決して変えることは出来ませんが、過去を心の中で旅して、人は、今を生きる術を知るのかもしれません。

過去を振り返ることを消極的に捉える考えもありますが、過去を旅して、過去を懐かしんで、今、幸福になれるのなら、素晴らしいことだと思います。たとえ、そこに教訓がなくとも。

でも、気になることがありました。

真次の父親が、自分の子供(真次の兄)が自殺したその日に、愛人宅に行って、愛人のお腹の中にいる自分の子供の名前、将来までを、愛人と語り合う場面があるんですが、父親が、あまりに人間として破廉恥に感じました。あり得ないと。

真次の父親の実像とかけ離れすぎていると感じました。

構成上、兄が地下鉄に飛び込んで自殺した日に、決定的なエピソードを集約する必要がある、と判断したんでしょうが、私としては、嫌なものを見た、という気持ちです。

でも、その愛人のお腹にいる子が、実はみち子で、究極の愛、を体現することになるとは、なんと皮肉な、いや、あまりに悲しすぎる結末です。みち子の愛の大きさ、純粋さ、悲しすぎます。

みち子という愛人の娘が、成人して、真次を愛するという、衝撃的な内容に(分かりますよね、この意味)、ひとを愛することの悲しみを、突きつけられたように、私は感じました。

読んでない方には、分かりにくい内容でしたね。ごめんなさい。

でも、書きたい衝動に駆られたのです。

ぜひ、映画も見てみたいと思います。