青色LEDは教育にも革命をもたらすのか?

朝日新聞の朝刊に、青色LEDの発明者、中村修二さんが、日本とアメリカの教育を比較し、アメリカが絶対に優れている、という談話を寄せていた。

アメリカでは、やる気のある者、才能のある者は、サポート体制が整っていて、いくらでも、その才能を伸ばすことが出来る、という内容だった。

大学入学以前から、確立された体制?により、専門性の高い勉強が出来るので、大学に入ってからの、伸びが著しい、ということらしい。

残念ながら、私は、アメリカの教育の実情を知らないので、何とも言えないのだけど、ちょっと思い当たる節がある。

中村さんは、日本では、やりたくもない受験勉強に時間をとられ、自分の興味に従って、学問を深めることができないのが問題だ、と指摘していたが、これを読んだときピンと来るものがあった。

高校生の時の自分が、まさに、この問題を抱えていたからだ。

受験勉強という、私にとっては、余計で、厄介なことをクリアしなければ、大学で、自分の勉強したいことが出来ない、という状況にあったからだ。

私は、決して、成績優秀な生徒じゃなかったが、生物学に関して、非常な興味があり、自分なりに、本を読んで、勉強を進めていた。

所詮高校生のやること、今思えば、変に背伸びしたりして、カッコつけていた。

でも、もし、私の興味を理解して、それを上手く伸ばす方向に導いてくれる人がいたら、高校生でも、かなりの所まで行ったのでないかと思う(ちょっと言い過ぎかもしれない、汗)。

一応、生命科学の研究で、身を立てている者の端くれなので、この勝手な議論を大目に見ていただきたい。

浪人して、大学に入り、専門教育を受けるようになったとき、私は、やりたくもない受験勉強で、貴重な時間を無駄にした、と感じた。

あんなイヤな受験勉強をしなくても、学部教育に十分対応できたと感じたからだ。

英、数、国、理、社、まんべんなく出来る者が、選ばれて、大学教育を受ける資格を得る、という制度には、一面の説得力がある。学問の基礎が、それによって養成されたではないか、という理屈だ。

では、社会が苦手で、数学もあまり出来ず、でも、生物には、深い知識と、興味がある、という者は、不完全な人間として、高等教育を受けることが出来ない、あるいは、機会を得る確率が少ない、とするのは、適当だろうか。

私は、特定の分野における才能を重視し、高等教育を受ける資格を与えても良いと考える。

現に、スポーツでは、小さいときから英才教育を受けたトップアスリートに、大学入学資格を与えているではないか。

東京工業大学が、ある学科で、数学だけで入試をする制度を開始したらしいが、どんな結果になるか楽しみだ。大いに期待したい。

でも、中村さんの指摘した問題点を改善していかないと、高等教育に革命をもたらすことは難しいだろう。

なんせ、今は、育てる、というより、選別に躍起になっている状態だから、日本の教育は。