「カネ」はなくとも子は育つを読んだ

古本屋で、森永卓郎さんの、「カネ」はなくとも子は育つ、を105円で手に入れた。

夜中に、ざっと読んでみたが、共感するところもあったが、なにか、引っ掛かるというか、物足りなさを感じた。

経済アナリストだから当然だと思うが、所得で階層化したグループごとに、教育にかける経費に関して、数字をあげて解説していたが、繰り返しが多く、読むのがうっとうしかった。

言いたいことは、教育においても、二極化(上流と下流)が進行しているということだ。

コイズミが進める構造改革の結果として、社会階層における上流と下流の二極化が生じ、教育にも、その影響がハッキリと見て取れる、ということだった。

そして、この二極化がさらに進行すると予見し、教育投資は、リターンの可能性が極めて低いギャンブルだ、と結論づけていた。

この先、二極化が進行すると、超エリートになる可能性が極めて低くなるので、それを目指して、教育投資するのは、無駄だ、ということらしい。

そして、貧乏人は、親が子供を守れ、と説いていた。

教育費高騰の元凶である塾に依存することなく、ゆとり教育による学力低下を防ぐために、読み書きそろばん、という基本を、親が教えよ、と主張していた。

森永さんは、恒産なくして恒心なし、という教えには共感するところはないのだろうか。

生きるのに精一杯な家庭に対して、親が、もっと積極的に教育に関われ、と言いたいのだろうか。

一個人の努力でどうにかなる社会状況だろうか。

せめて、教育の機会均等を、国が保証すべきだ。奨学金制度も、十分とは言えない。

日本は、アメリカ型社会を真似ることは出来ない、と私は考える。社会基盤があまりに違いすぎるからだ。

基本的な教育レベルの高さが、この国の繁栄を支えてきた、と私は考える。

ほんの一握りのパワーエリートに隷属するしかない、暗い未来しか示すことが出来ない国家に成り下がったとき、非エリート層の子供たちは、果たして十分な学習意欲を持ち続けられるだろうか。

親が教えろと、気楽に言えるのは、それが可能な、裕福で、知的レベルの高い家庭に育った人だから言えることだと、私は考える。