大学進学実績で、都立高校の学校群制度を眺めてみる

1967年に導入された学校群による入試制度によって、都立高校は凋落した、という認識が定着している。

確かに、学校群制度は、多くの問題点をはらんでいた。

東京都という、巨大な地域であることを十分に考慮することなく実施したため、単に都立高校という枠組みだけに留まらず、私立や国立を巻き込んだ、教育界全体の大改革(破壊と再構築)に発展してしまった。

無風だった私立や国立の学校を選択する者が激増し、結果的に、都立高校は大学進学実績を大幅に落としただけではなく、各学校が持っていた、固有の文化を失うこととなった。

固有の学校文化、というくだりは、むかし<都立高校があった>(奥 武則著)からの引用である。

学力格差を、学校格差という言葉に置き換えて、学校格差是正という耳障りが良い言葉によって、学力格差を解消しようとしたのだ。

学校群制度では、東京都をいくつかの学区に分け、その学区にある都立高校を、学力で4段階くらいの群に分け、1つの群に、2~3校を配置することにより、学校格差を是正する、という驚くべきほど、単純な発想が、その基本になっている。

学校群制度の実際は、一例を挙げると、日比谷に入るような高学力の生徒を、三田、九段に振り分けることにより、日比谷は低落するかもしれないが、三田と九段は学力向上し、結果として、そこそこの進学校が複数誕生するから、学校格差がなくなる、というものだった。

そこそこの進学校を沢山つくり、進学校への門戸を拡大すれば、民衆は満足するだろうという、単純な発想が見て取れる。

結局、学力差を容認しているところが、この制度の曖昧さを象徴しているように思われる。

その背景には、民主主義を曲解した、平等主義が見え隠れする。

元来、能力は平等なのだ。努力すれば、みんな同じ学力を持てる。ゆえに、公は、それを全面的に支援する責任がある、という考えを反映した、学校格差是正だったように思える。

本来、多様な人間を、一定の方法で教育し、その結果をある基準で評価する限り、学力には、絶対に格差が生じる。

ただ、それをもって、人間の価値(適切な表現ではないが…)が決まるわけではないのだ。

人が生きるということにおいて、最も重要なことはなにか、という議論を置き去りにして、この大教育改革は断行された。

戦後の経済発展に呼応した、教育への関心の高まりを、受験教育一辺倒の誤った考え、と切り捨てた教育行政のトップと、その煽動者(新聞社)によって、ことは信じられないほど速やかに実行に移された。

教育を受ける方の反対も強かったが、学校群制度は強行された。

教育行政の責任者がやることは正しく、巷の、大学受験だけを考え、教育の本質のなんたるかを知らない、目先の利益しか興味のない親やその子供は間違っている、という傲慢な考え方が読みとれる。


以上が、都立学校群制度の導入の背景のごく一部だ。

そこで、私が住んでいた第6学区では、この改革でどのような変化が起こったのだろうか。

学校群時代の第6学区のトップ校(61群)は、両国、隅田川小松川(もと女子校)であった。

学校群制度以前は、東大合格者を見る限り、両国高校の1人勝ちで、毎年、50人ほどの合格者を出していた。

全国的にみても、有数の進学校だったわけだ。ただし、東京には、日比谷高校という怪物がいた。2番手の隅田川、3番手の江戸川がそれに続いたが、その差は歴然としていた。

学校群制度が導入されると、東大合格者は、61群の3校に分散することになった。しかし、両国高校が一番多くの東大合格者を出していた。1970年代でも、20名くらいの合格者だったように記憶している。

私の通った中学で、学年トップだった同級生の1人が、両国高校から東大に現役で合格した。

両国高校は、学校群導入後も、そのノウハウで、なんとか進学実績を保っていたのだ。

学校ごとのノウハウというと、たぶんに受験テクニック的になるが、それも沢山ある伝統の1つだ。その伝統を維持することは、生徒と教員が、それぞれの役割をきちんと果たしてこそ、実現可能だと考える。

役割を演ずるには、それ相応の覚悟かいるわけで、学校群制度の入試により、群内の学校に機械的に配属された生徒に、その覚悟があっただろうか。この覚悟とは、勉強に限ったことではない。

教員に関しても、全く同じことが言える。

いずれにしても、第6学区の難関大学合格者数は、トップ3校に分散されたが、その数は大幅に下落した。

1970年代当時、第6学区のトップ校では、学力向上を目指し、色々な取り組みがなされていて、江戸高(非進学校)にいた私などは、その勉強量の多さに、驚いた記憶がある。でも、心を入れ替えて、受験勉強をすることはなかった。どこまでも、凡才な自分に呆れる。

友人の1人が、61群のある高校に進み、当初、優秀な成績を上げていたが(東大も狙えると話していた)、後に、過度の勉強で精神を病んでしまった。また、その学校に進んだ女子の中に、小学校時代、よく遊び、好きだった子がいたが、学校に馴染めず、素行が悪くなり、悪い意味で有名人になっていた。

その学校の内情を全て知っているわけではないが、教員も学力の低下と進学実績の下落に、過度の負担を生徒に強いていたのではないかと、推察している。ただし、あくまでも、部外者の感想だが。

都立高校の全体の大学進学実績は、さらに下落し、現在は、学区トップだった両国高校の東大進学者は、数名までに落ち込んでいる。

そして、今、都立高校は、先ずは、大学進学実績の向上を、ということで、受験勉強に特化した改革を押し進めている。

高校時代を振り返って、思い出されることは、同級生との交流、部活のこと、先生との関係など、勉強とは直接つながりのないことばかりだ。

それは、進学した高校が、受験教育とは縁遠い学校だったからかもしれない。私にとって、江戸高での3年間は、自分の基礎を築いてくれた、大切な時期だった。

今、都立高校で進められている改革は、新たな学校文化(伝統)を生み出すものであって欲しい。その一つの表現として、大学進学実績があるに過ぎないのだから。改革の思想性から考えると、かなり無理な願いかもしれないが…。