映画版「がんばっていきまっしょい」を見た。
1度目は、流すように見終わってしまった。取り立てて、感動した!ッてことはなかった。
2度目は、この映画が、力むことなく、自然体で作られていることに気が付いた。
だから、初めて見たとき、あっさりとした印象を持ってしまったのかもしれない。
自分の高校時代の思い出が、映画で繰り広げられることとすんなり結びつき、登場人物に強い共感を得ることができた。
この映画の感想をネット上で読んでみると、皆さん、高校生活を自然な感じで描いたところがいい、というコメントが多かった。
この映画は、受けを狙った娯楽作品を目指さなかったからこそ、私のような、大多数の普通の人に感動を与えることができたのではないだろうか。
あまり意味のないことかもしれないが、ついついテレビドラマ版と比べてしまう。
テレビ版は、満艦飾の豪華な構成で、盛り上げ時は、めいっぱい気合いを入れて盛り上げていた。
映像も、音楽も、俳優も、ある意味すべてが豪華版だった。
テレビ版は、躍動感あふれる?(微妙に違うけど)、ぶっ飛んだ、非現実の高校生活を描いていたと思う。
実際の高校生活を描くことに興味がなかったとさえ思える。
映画版が高校生を高校生らしく描いていたのに対して、テレビ版は、アイドルのキャラを前面に押し出し、普通じゃない高校生でもかまわない、という感じで押し切ったという印象だ。
これだけ好対照な作品だと、賛否両論で、その評価は見る者の好みによるだろう。
僕は、どちらも、制作者の意図は達成された作品だと思う。
映画版については、その時代設定が、まさに僕の高校生時代であり、そこに描かれていることを、すんなりと受け入れることができた。
マジソンバックも、ちゃんと小物として登場させていて、なんだかとても懐かしくなった。僕も、あれ下げて、毎日学校に行っていたんだからね。
それと、地方の公立の名門進学校が、いかにスパルタ教育だったか描かれていて、面白かった。
京都大学に通う悦子の姉が、悦子に与える高校生活に関する助言が、あまりに優等生的で、古風で、かつ、実利的なのにはちょっと嫌な気分になったが。
まあ、それくらいしないと公立高校から超難関大学には進学できないということも一面の真理だが。
自分の進んだ都立高とのあまりのギャップに、同じ時期を高校生として過ごした仲間として、敬意を表したい。これ、冗談じゃなく、素直な気持ち。
映画版で、気に入らなかったことがひとつある。女子ボート部のコーチ役の中島朋子の演技だ。
何かに挫折して、故郷に帰ってきたという設定らしいが、捨て鉢になっていることを表現する演技かもしれないが、それが余りに過剰で、彼女だけが映画の中で非現実的だった点だ。
いやしくも、コーチを引き受ける人が、あんな態度で高校生のボート部員に接するだろうか。
中島朋子の演技が、映画のリズムを壊していると感じた。彼女の登場するシーンは重すぎる。
映画版は、飽きの来ない、和風味のラーメンのようだ。たぶん、何回も見るような気がする。
そして、そこに流れる自然な時の流れにふれ、ありふれた日常を確認することによって、穏やかな気持ちになることだろう。
もしかして、多くの人は、自分の高校時代を、この映画を見ることによって追体験しているのかもしれない。