授業の思い出

私の江戸高入学当時、どんな授業内容だったか、当時を振り返ってみよう。

数学
 一年の時、酒臭い感じのM先生に習った。昔は大酒のみだったらしい。武勇伝に事欠かない、伝説的な数学教師という噂だったが、私たちの頃は、普通に見えた。同窓会報で、M先生の昔の様子を知ることが出来たが、確かに個性的?な先生だったようだ。教え方が特別上手いとは思わなかったが、比較的わかりやすい授業だったと思う。ズーズー弁で、憎めない先生だった。昔は、かなり厳しかったそうだが、色々あって丸くなったのかもしれない。それにしても、数学の問題演習量が全然足りなかった。演習で苦労したという記憶が全くない。大体、演習用の教材がなかったと思う。二年時、三年時には、物理学校(東京理科大の前身、漱石の坊ちゃんにもでてくる)出身のN先生や、女性のH先生にも習ったが、M先生の授業が一番多かったし、個人的には、可愛がってもらった。3年生のあるとき、職員室の前の廊下でM先生に呼び止められて、これをやってみろ、と東大オープン模試の数学を渡された。東大なんて頭になかったのでビックリしたし、あまり気乗りしなかったので、全部やらずに、ほったらかしにしたような気がする。すいません、M先生。いずれにしても、数学が苦手な私は、先生を満足させることはできなかったと思う。

英語
 英語の先生としては、クラブの顧問だったH先生(東外大英米語出身)の顔が真っ先に思い出されるが、一度も習ったことはなかった。見るからに才女のA先生(早稲田を経て東大卒)や、お体を悪くされて一時休職されたM先生に習ったが、普通の授業内容だったという記憶しかない。A先生は小柄で可愛いらしい先生だった。途中で、確か英国に留学された。授業の進度はあまり速くなく、サイドリーダーもなく、演習もほとんどやった記憶がない。ないないづくしだ。英語は読み込み量によって決まるので、当時の江戸高の英語は、大学受験に対応できるものではなかったと思う。

今でも、気になる英語の先生として、非常勤で短期間教わった男性の先生のことが思い出される。中年の先生で、定時制で教えられていたと聞いたが、それまでの先生とは違って、授業の進行がとてもうまかった。ある時、リーダーを読むように指名され、読み終えて、席に着こうとしたところ、いきなり先生が、英語で質問してきた。リーダーの内容とはあまり関連がない質問だったと思う。そんな授業形態は初めてだったので、一瞬、止まってしまったが、なぜか、英語で答がすんなり出た。初めての体験だった。なぜ、日本語で答えなかったか、今でも不思議だ。たぶん、先生の誘導の仕方が上手かったのだ。でも、そんな集中出来た授業も、ほどなくして、もと習っていた先生が復職されて、終わりを告げてしまった。今思えば、あの先生はすごい先生だったのかもしれない。お名前もすっかり忘れてしまい、残念でならない。そう言えば、たぶんバレンタインデーにかかっていたのではないかと思うが、クラスメイトの女子が、その先生にチョコを渡していた。私以外にも、きっと、先生の授業を気に入っていた生徒がいたに違いない。

理科

理科は、教育課程の変更にともなって、その内容が、かなり高度になっていた。
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 S先生に習ったが、授業は上手かったと思う。私は物理を受験に使うつもりはなかったので、きちんと勉強しなかった。折に触れて、S先生は我々にお説教をした。今やらなければならないことを先送りして逃げることを、「ずるずるべったり」と先生は表現していた。気をつけないと「ずるずるべったり」な人生を歩むことになるぞ、と何時も話されていた。確かに、先生の言っていたことは正しかった。多くのクラスメートは、ずるずるべったりだったため、浪人する憂き目を見てしまった。私も、そのうちの一人だった。といっても、補習も禁じられていたので、軽めの授業だった。S先生によれば、学校群が始まる前は、バンバン補習もやって、生徒を鍛えたらしい。呑気な江戸高生には、S先生の昔話や、ずるずるべったりの人生訓も、馬耳東風、馬の耳に念仏、猫に小判で、後になって痛い目を見て始めてその正しさを認識するという具合だった。
 化学
 Y先生に習った。この先生、授業中、大事な箇所に近づくと、声がだんだん小さくなり、聞き取りにくくなるという、独特な授業スタイルだった。たぶん、生徒の集中力を高めるために、わざと声を小さくしていたのだろうと思う。私は、実験が好きだったので、化学は楽しめた。ただ、化学実験で器具を壊すと、それは一個X円するんだ、といって叱られた。我々生徒は、先生の言う器具一個の単価が高いと感じて、Y先生特別価格と言って、茶化していた。変な注意の仕方だなあ、と思ったが、Y先生は生徒思いの、正直な先生だった。今でも印象深いのは、補習も十分できず、この時間数ではとても大学受験に十分な教育ができない、と率直に話されたことだ。我々の注意を喚起しようと、恥を忍んで話してくれた先生の真意を理解できた生徒は、果たして何人いただろうか。すいません、先生。
 生物
 生物気錬叛萓検∪己兇錬埓萓犬暴った。生物は、将来やってみたいことに繋がっていたので、気合いを入れて勉強できた。H先生は植物生態学で一時代を築いた沼田真と大学で同級生だった。私も、一時、千葉大の沼田先生に弟子入りしたいなぞと考えたこともあったが、結局、違う道(植物じゃなくてどちらかというと動物)に進むこととなった。H先生は、授業中、生徒がざわつくと、「私は、うるさい!、と言いたいんですね」と他人事のような注意の仕方をした。本気でそう思うなら、「うるさい!」と怒鳴ればいいのに、と思ったが、紳士的だったのか、H先生が大爆発することはなかった。生物兇任蓮▲曠織襪糧光を試験管の中で再現するという実験が思い出される。試験管内で、ATP、ルシフェリン、ルシフェラーゼを混ぜて、発光させるという単純な実験だったが、初めて触れる生化学に、つまり生を化学で説明するということに、いたく感動した。

社会
 地理
 元戦車隊隊長のK先生に習った。個人的には、地理が好きだったので、よく頭に入った。地理は無味乾燥な暗記ばかりじゃなかったので、楽しんで勉強できた。生態学的な側面もあり、私の嗜好に合っていた。K先生は、さずが元陸軍将校だけあって、すきがなく、強面な先生だった。でも、カタカナ語の発音が上手くできなくて、一語一語切って発音するので、変なアクセントがついた。それを聞くにつけ、K先生は昔の人だなあ、と感じた。でも、軍人としての体験を話されることはほとんどなかったと記憶している。
 歴史
 世界史のN先生は、物語風に授業をしてくれた。歴史が立体的に感じられた。日本史は、残念ながら、ほとんど記憶がない。
 倫理
 I先生の思いでは、以前、書いたので、その箇所を読んでいただきたい。

国語
 B先生とY先生に習った。現代国語、古文、漢文、いずれも、生徒より先生の方が、授業することを楽しんでいるように見えた。国語科は、古文と漢文は外国語という感覚で取り組むしかなかったので、現代文に訳した内容をじっくりと味わう方が楽しかった。使われなくなった言葉にどれだけの教育的価値があるのだろうか。歴史の一部分として、日本文化の理解を助けるものとして扱うなら理解できるが。古文や漢文で読み書き会話する機会はないのだから。あまり、いじめられたという記憶がない。宿題や演習もほとんどなかったように記憶している。

64群に入学するレベルの生徒は、放っておいたら、まず勉強しない。自分たちの不勉強と、才能を棚に上げて勝手なことを言わせてもらうと、教員も含めて、学校全体がのんびりし過ぎていた。演習不足によって、大学受験に見合う学力が付いていなかったとハッキリ言える。学校での勉強量が、少なすぎた。ただ、大学受験を意識し、進学塾や予備校に通っていた者もいた。以前も書いたが、目標を持って、しっかり勉強した連中は、現役で有名大学に進学していったが、少数だった。多くの場合は、浪人して、不足していた演習を補うことにより、翌年には、大学進学を果たしていた。

同時期、61群の両国高校などでは、かなりの量の宿題や演習、そして授業を理解するための予習が必要だったと聞く。英語一つとっても、英文の読み込み量が江戸高と比較にならないほど多かつた。これでは歴然とした差がつくはずである。61群に進んだのは才能ある生徒が多かったので、かなり無理をして詰め込んだようだ。凋落したといっても、学校によっては、まだまだ、がんばっていたところもあったのだ。61群と64群の間には、大きな差があったと思う。61群に行った連中はキッチリ勉強していたようだ。だが、せっかくの先生のがんばりも、生徒側の問題もあり、さらに、凋落の道をたどることとなる。

そして、現在の江戸高。学力的には、厳しいものがある。進学率も、進学先の大学も、我々の頃よりかなり落ちているようだ。旧国公立大学や、MARCHに進むものが劇的に少なくなっている。当時は1浪が当たり前という状況だったが、理科大やMARCHレベルには潜り込んでいた。

江戸高は、このまま、江戸川区限定(昔からその傾向はあったが)の高校としてやっていくのだろうか。それとも、少なくとも、東京都にある高校くらいまでになることができるだろうか。都立高校の復権を目指し、他は動き出している。取り残されなければいいが。