よりよく生きるために(倫理・社会 I先生)

倫理・社会のI先生から、生き方について重大な問題点を指摘されたことがあった。その忠告を素直な気持ちで受け止められなかった。そのことが、今でも心に重くのしかかっている。

何の課題だったかは忘れたが、物事の本質に踏み込むことに尻込みしているだけなのに、訳知り顔で、せいぜいカッコつけたつもりで、今は未熟で人生を語ることは出来ない、といった内容を書き連ね、勝手に自分で設定したテーマで作文し、提出した。I先生は、私の名前こそ出さなかったが、授業でその問題点を取り上げ、諭して下さった。今思えば、子供じみた行為で、赤面するばかりだが、当時は、自分の主張の方が一理ありと本気で考えていた。勝手に設定したテーマも、内容は薄っぺらいものだったと思う。

高校に入学してから、哲学、自然科学、文学とジャンルを問わず読書するようになった。大した読書量ではなかった。少しかじっただけの、消化不良の知識が、その時の自分にはすごいものに思えたのかもしれない。しかし、その知識が自分の知力になっていないことに気が付いていた。だからこそ、物の本質を自分の知力で語ることを逃避したのだと思う。いい点を取れないから、いまはテストを受けません、というのと全く同じ発想法である。初めから、敗北しているのだ。自分の力のなさを認識しているが故に、それが露呈することを恐れ、逃げた、とその時の自分を私は断じている。

この逃げるという行為、あるいは傾向は私の人生の節目で、必ず顔を出す。結局、高校時代のこの強烈な出来事にきちんと向き合わなかったことが、後の人生に影響していると思う。

I先生のご主人はカントに代表されるドイツ哲学を専門とする学者だったと記憶している。実は、私もカントの論理的な思想に惹かれ(カントは自然科学も教えていた)、ご主人の書かれた入門書を読んでいた。I先生は理知的で、許容の幅が広い方だったと思う。苦手意識のあった私はI先生を避けて、倫理・社会の授業以外で、関わりを持つことはなかった。今思えば、I先生は知力を伸ばしてくれるこの上ない先生だったかもしれない。

このエピソードに代表される高校生当時の知識と知力のアンバラスは、現在も、そして、この先もずっと続くだろう。ただ、そのバランス状態を常に意識しておく必要があると、今の私は理解している。よりよく生きるために。