昼飯時のこと

高校になると給食はなくなり、弁当を持ってくるか、外に食事に行くこととなった。もしかしたら、昼飯時とはいえ、おおっぴらに出歩いてはいけなかったのかもしれない。当時はコンビニや弁当屋が今のようになかったので、学校も大目に見ていたのかもしれない。家庭の事情で、弁当を用意できない家もあったはずだから。

ある時から昼休みに弁当を売りに来るようになったが、とんでもなくまずく、一回だけで、二度と買うことはなかった。まあ、値段は安かったので、あの味でも致し方なかったと思う。

私は母に弁当を作ってもらうのが煩わしくなり、入学早々に、外食組になった。気のあった仲間と相談し、どこに行くか決めるのだ。よく行ったところは、江戸高のすぐそばにあった中華料理屋、江戸川区役所の食堂、区民センター?(今は名前が変わっているようだ)のレストラン、の3カ所だった。どこに行くにしても、校門を経由していくと遠回りになるので、当時はコンクリート製だった塀を乗り越え、近道をして、他の生徒より早く昼飯にありついた。そのうち、いつも乗り越えている塀のそばの住民から、苦情が来て、塀を乗り越えてはいけない、と学校から指導された。とくに悪いことをしているという意識はなかったので、その後も、たまに乗り越えていた。

実は住民からの苦情は、ただ塀を乗り越えることだけを問題にしているのではなかった。禁じられていたバイク通学をしている連中が、堂々と、その塀のそばに路上駐車をしていることを問題にしていたのだ。その連中も、塀を乗り越えて、学校に出入りしていた。この塀乗り越えとリンクしたバイク通学の問題はどうなったか、ハッキリとは覚えていないが、何かしらのおとがめがあったかもしれない。

今思い出してもおかしいのは、私がよく行ったのとは別のある中華料理屋のことだ。そこは、ちょっと悪(ワル)の江戸高生(悪はいなかったと思う)のたまり場になっていて、その二階は、飯を食いながら、一服やれるような構造になっていた。麻雀も出来たはずだ。先生方もそのことは知っているようだったが、学校の手入れがあったという記憶はない。何かしらの指導があったのかもしれないが。

区民センター?のレストランは、味は大したことがなかったが、安くて有り難かった。そこは結構年輩のおばさんたちがウエイトレスをしていて、何か変な雰囲気だった。我々は大盛りのカレーとハンバーグライスを一緒に食べたりして、みんな旺盛な食欲だった。それを見た、愛想がいちばんよくて、かっぷくのいいおばさんに、「若いってすばらしい」と言われたことがあった。役所がやっているという感じのあか抜けないレストランだったが、高校生が出入りするのにはちょうど良かった。安かったので、結構通ったが、値上げしてからは、高校生の懐具合では厳しくなり、ほとんど行かなくなった。

行きつけの中華料理屋では、大盛りもやしそばをよく食べた。何を注文するにしても大盛りだったが、部活の後にはもう腹ぺこで、通学路の途中にあったパン屋で飲み食いをしてから家路につく、ということをよくした。当時はカツサンドを食べ、500mlのコーラをがぶ飲みしたものだった。猛者は、1リットルを一気に飲んだ。コーラにむせて、盛大に噴出するやつもいた。

ある時、クラスメートのひとりが、学校そばの汚い小さな食堂に入ってラーメンを注文したところ、インスタントラーメンを調理して出されたという話になった。それを聞いた我々は、彼のジョークかと思ったが、彼は、絶対に××××みそラーメンというインスタントだったと言い張った。ラーメンの味と、そのラーメンに添付されている香辛料の袋が一緒に出されたから確かだ、と証拠をあげて説明していたが、我々は最後まで信じることが出来なかった。その後、誰もその見るからに怪しげな店に挑戦する者はいなかった。

あと記憶にあるのは、やたらに大盛りな焼きそばを出す店があったことだ。高校のすぐそばだったと思う。どこかの部のたまり場になっていた。大盛りを注文すると皿にうずたかく盛って出してきた。皿の上に巨大なドームが出来ていた。どこを崩して食べたらいいか躊躇するほど、皿の上の焼きそばは立派な建造物になっていた。盛りは良かったが、あまり人気のない店だったと思う。

なるべく安く、たくさん食べたいので、ちょっと遠出をして新たな食堂を開拓するグルメもいたが、当時は、安かろうまずかろう、ついでに汚い店ばかりだった。時間制限があるので、結局、ほとんど同じところに食べに行っていた。