国立(独立行政法人)大学付属の学校は何のために存在するのか?

国を挙げての早熟な優秀児教育の殿堂として、筑波大学付属駒場中高(筑駒)がある。
中学入試を突破するには、いずれの塾の偏差値においても、最高位にランクされているほどの難しさだ。
ここの出身者は創造性豊かなのか?気にかかる。

私立トップ校もやっているが、何かのコンクールに(よく利用されるものとして数学オリンピックがある)に入賞した、と言うことを宣伝し、その創造性をアピールしているようだが、その実態は…、曖昧だ。この学校は、単なる早熟な超優秀児の才能のはけ口ではないはずだ。

色々な才能を持った子供は日本中に散らばっている。東京地区に集中しているわけがない。
大都市には、筑駒と同じ役割を担った学校もあるが、ごく限られた数である。
国は才能ある子供の発掘と、その適切な育成にさほど熱意があるとは思えない。
親が勝手にやればよい、という印象だ。

筑駒に入るためには、進学塾での受験勉強が必須となる。そして、入学試験で、どの教科もまんべんなく得点することが必要となる。そう考えると、筑駒の欲しがっている子供は、現行の受験システムで、よい成績を収めることが出来る子供に限定される。合格する子供は確かに超優秀児だ。しかし、見方によっては、かなり偏った集団とも言えなくもない。私立ならまだしも、国立(独立行政法人)である筑駒の、教育的観点からの存在意義が、私にはよく理解できない。特殊な集団で、実験的教育を試しても意味があるのだろうか?この議論に関しては、私の知識不足による錯誤もあるかもしれないが。

特定の分野だけに特異な才能ある子供は、多分、筑駒の入学試験を突破することは難しいだろう。では、そんな子供はどうやって、その才能を開花させればいいのだろうか。親が個人でやるには限界がある。これこそ、国がやることではないか。色々な分野で、才能ある子供の育成に取り組む必要があると思う。まずは才能伸ばすためのよい環境を与える必要があるだろう。それによって、様々な分野での独創性や創造性が新たな展開を迎えるのではないだろうか。

東大の入学者を競うことが国立の学校の存在意義の1つ、という穿った見方もできなくないが、それとは別に、特異な才能を大切にし、純粋に創造性を育てる場(学校)も用意していただきたい。そのためなら、税金の投入も苦にならないと私は考える。不要な建物や道に使われるよりはるかにいい。