なぜ、ドイツのようにならないのか

最近、このへんてこなブログを訪ねてくれるようになった、福島のさやかさんのブログで、このところの政治的なゴタゴタ(いつもですけど)と、現実を直視しない政府や国民に対する失望が綴られていました。
 
私も、さやかさんと全く同じ感想です。日本国民に対して、日本社会に対して、激しく失望しました。
 
さやかさんの記事では、ドイツが、原発から自然エネルギーへの転換を目指した、新しいエネルギー政策を進める決定をしたことが書かれています。
 
ドイツの現首相は、原発推進派だったのですが、福島の事故を受けて、老朽原発7基?を即座に止めるという措置をしました。そして、原発の総点検を指示しました。
 
ドイツは、今後の原発政策を再考することを表明し、自然エネルギーの利用を中心とした、新たなエネルギー政策を推進するようです。
 
このようなドイツの状況を踏まえて、さやかさんは、なぜ、日本でも同じような、脱原発、の考えが拡大しないのか、嘆かれていました。私も、同じ気持ちです。
 
その嘆きに対する、私のコメントが(青字の部分)、以下のものです。
 
近代哲学の源流の1つであるドイツとは違って、全てを水に流す文化の日本が、ドイツと同じように論理的思考によって、原発を客観視し、廃絶に向けて動き出すバズがありません。論理的な思考に、精神が耐えるように育てられたいないのが原因だと思います。日本の教育を見てください、教師が与えたものを素早く正確におぼえ、再現できることが、最も優れた人間という価値観で社会を構築したのですから。これは、明治期の教育制度、教育理念をそのまま引きずっているのです。昔は、規格外の教育や自己教育によってすばらしい人材が出現したのですが、これだけ人間を規格化する教育、すなわち、思考させない教育を推進してきたのですから、国民の多くは、国難に当たっても、問題意識を持たないのです。政府が、問題ない、と言っているので、あれこれ考えるより、それに乗っかっている方が楽だからです。すべて、教育に原点があるのだと私は考えます。でも、志ある人たちが声を上げ続けることが必要ですね、少しでも社会を変えるために。学校の教員には何の期待も出来ません。学力競争と受験教育しか頭にありませんから。子供に思考させる教育をしていませんからね。
 
教育理念が社会の動向に大きな影響を与えていると、私は考えています。
 
このロジックは、以前も、そして、何度となく、このブログで使ってきましたし、今も、以前にも増して、そう考えるようになりました。
 
国民性は、教育でコントロールできるのです。
 
豊かな自然に恵まれ、基本的には温和な性格である日本人を、ある種の悪意、意図を持って教育し、コントロールすることは、さほど困難ではないのと思います、ものの本質に迫るような論理的な思考(哲学)を遮断すればいいのですから。
 
それには、教師が解答のある問題を与え、うまく出来ることを競わせればいいのですから。
 
そのような学力向上競争による教育が、思考しない国民をつくりあげてしまったと考えます。
 
この為政者による企ては、大成功し、富国強兵、帝国主義、植民地獲得、という悪の道をひた走る原動力となりました。
 
教育により、論理的な批判精神など希薄ですから、感情だけで物事を判断するため、我を忘れて激高し、自滅的な結論を導き出してしまい、そこに、国民あげて飛び込むという、愚かしい行為をしてしまったのが、先の大戦でした。
 
現在の教育理念では、どうしても、論理的、抽象的な思考を育てることは難しく、論理性を追求する精神力もないので、支配者の楽観論に乗っかってしまうのです。
 
頭を使わないって、生きるのが楽ですからね。