核の実験場だった日本

通勤の途中、ふと、こんな考えが浮かんできた。
 
日本は、西洋列強のための核実験場だったのだ、と。
 
アメリカの強い要請とマスメディアを牛耳る人物にの全面的な協力、そして、経済発展と引き替えに、国民の命など惜しくはない、という大本営の思想を受け継いだ為政者たちは、原発利権というおいしいエサを武器に、日本中に、この原発という核爆弾を設置し続けた。
 
アメリカでさえ、スリーマイル以後、30年間、新規の原発は作られていないというほど、この核爆弾を危険視し、慎重な政策をとってきた。
 
その代わり、日本を手先にして、本国を核の危険にさらしたくないアメリカは、核の商業利用を推進してきた。
 
マスゴミの協力と安全宣伝、そしてお金をちらつかせた原発利権に圧倒された国民は、何の疑いもなく原発を認めてきた。
 
先日、記事にしたが、日本は西洋の実験場という役回りを、いつの時代も押しつけられてきた。
 
保守系の人、そして、右翼というか既得権者は言う、経済発展があったではないか、恩恵に浴してきたのは確かだろう、と。
 
押しつけられた恩恵というアメをなめざるを得なかったのは、推進派も含めて、国民の多くは、何も知らされていない、そして、何も反論出来ないように仕組まれていたからだ。
 
この思想統制は堅固に構築され、脅迫や人権侵害さえも辞さないという反原発潰しに、個人では、そして、一般の市民団体では、到底対抗できるものではない。
 
こういった反原発封じ込めシステムを構築した上で、お前達は原発の恩恵を受けてきてここまで豊かになったのだ、と言う論理を振りかざし、原発の危険に疑問を呈する国民を徹底的に排除してきた結果が、今回の福島での、人類史上最悪の原発事故へつながったのだ。
 
巧妙かつ強引に仕組まれた原発推進活動により、国民は、選択の余地さえ与えられなかったし、そもそも、為政者たちは、選択権など与えるつもりなど毛頭なく、原発推進を容認するしかないという社会を、しっかり構築していたのだ。
 
これに刃向かう者は、いくつかの事例でも明らかなように、地域では村八分にされたり、尾行や中傷といった、人権侵害を被ることとなり、中には、精神的な抑圧に耐えかねて逃げ出さざるを得なかった人もいた。
 
私が一番主張したいのは、結局この国は、西洋列強にとって、ゴミ捨て場、汚い実験場、だったということだ。
 
先日、バカ面下げたフランスのトップと、ごろつき原子力産業の女社長がやってきて、えらそうなことを言って、六ヶ所村の核施設と同じようにして、日本からお金を巻き上げようとしていたが、もう、こんな悪魔のような連中を相手にするのは止めるべきだ、国民の命の方が、原発より大切だろう、どう考えても。
 
国民の生命・財産が担保されるなら、経済的に貧しく、不便な生活を強いられても、私は、受け入れるべきだと考える。
 
もう、西洋のあまりに身勝手な思惑に飛びつき、乗っかり、挙げ句の果て、いいように搾取され続けるという、奴隷国家から抜け出すべきだ。
 
マスゴミに登場する保守の人、右翼思想を振りかざす人、そして新自由主義者のほとんどが原発推進論者であることから、彼らは、国民の命を、外国に売り渡していると私は断じている。
 
今回の原発事故にたいする国家と有力企業、有力マスゴミの対応をみていると、自説の完遂のためには、国民の命を全く考慮しないという、戦前の作戦参謀と同質の思想を受け継ぐ右翼的な人(果たして真の右翼と呼べるかは疑問であるが)が、いまだに支配階層にその地位をしっかり確保している国であることを再認識させられ、暗澹たる思いにとらわれる日々である。
 
有力新聞社の社説も、程度の差こそあれ、原発容認か推進であり、何ら変更はないという有様である。
 
日経新聞などは、国民の命のことより、お金のことしか頭にないという有様である。
 
この有力マスゴミの社説が国民の総意なら、この国は、この先も、西洋の危険物の実験場か廃棄施設であり続けることだろう。
 
空しく思わないのか、命の危険と引き替えに、こんな程度の、文化的生活を後生大事にすることを。