津波被害は天災、原発事故は人災

福島原発事故の話題ばかりが注目され、津波被害の報道が、やや鈍い印象を持つ。
 
本来なら、被災地の救援や復興に向けた動きが、連日報道されたであろうが、原発の大事故によって、いささか、津波被害に対する関心度が低下していないだろうか。
 
今回の原発事故の状況が明らかになるにつれて、危機管理意識の欠如、が招いた人災であるという思いが強くなってきた。
 
千年に一度の大震災を言い訳にすることは、原子力発電に関しては、許されないのだ。
 
そこに逃げ道を求める者たちは、原発を計画し、運用する資格と能力のない者である。
 
一番の驚きは、起こってしまった緊急事態において、最も注意を払うべき事案(燃料棒の冷却)に対するバックアップシステムが、まともに機能しなかった点だ。
 
なぜそのような事態に陥ったかというと、様々な可能性を考慮するという、想像力のなさ、が最大の原因のように思えるのだ。
 
原子炉の設計、製造、運転、管理を指導する人間が官僚体質であり、前例主義に陥っていて、はじめから設計限界を前例に基づいて設定してしまったことに、すべての原因があるように思うのだ。
 
つまり、想像力のある人物が少なかったことが、日本の原子力利用の致命傷だったと考える。
 
はじめから制御棒が突っ込みやすい設計の原子炉を選択して、確かに、地震によって制御棒は炉の中に挿入され、核分裂反応は停止をした、と宣伝されているが、それは、炉の性質上、当たり前の事象であり、問題は、その後の最重要な過程である冷却が、全くといっていいほど機能しなかった点である。
 
冷却システムを構築する上で、相当過酷な状況を想定すべきだったところを、前例主義で済ましてしまい、陳腐な予想を大幅に上回る事態には、全く役に立たなかったことが、今回の大事故(局地的で済めばいいが、すでに世界中に放射性物質が拡散してしまった)を招いたのだ。
 
原発という巨大かつ危険なシステムは、想像力のない人間には、到底、取り扱いが許されるべきものではないのだ。
 
日本の原子力関係者が、これまで通りに、想像力の乏しい、決められたことだけは正確かつ迅速にこなすだけの、ある特定な才能を有する人間たちで占められ続けるなら、さらに、大きな過ちを起こす可能性がある。
 
つまり、日本社会を構成する人材の中で、現在の価値観で評価が高い人間では、原子力という強力かつ凶暴で破壊的な猛獣を御することはとても叶わない、と考える。
 
想像力の欠如、これが、日本社会をとてつもなく危険な状況に追い込んでいくのではないかと心配する。
 
想像力の欠如は、教育の問題であり、現状では、増悪はあっても改善する要因は全く見あたらないことから、さらに、危険な社会運営が行われる可能性があると考える。
 
いずれにしても、もう、日本の原子力は死に体であり、もし、政府と官僚、そして原子力産業が強引に推進すれば、国民に生命の危険があることを承知させる必要がある。
 
果たして、そこまでして、原子力にしがみつく必要があるか、日本国民は、今度こそ、普段ほとんど使わない頭をフルに使って考え、選択すべきだ。
 
アメリカが足踏みをしている間に、アメリカに代わって原子炉を商品化して、大々的に売り込もうとした日本であったが、どうも、その野心もこれでおしまいのようだ、世界が命を選択するなら。