このところ、木島かなえ、という女が、マスコミをにぎわしている。
どうも、結婚詐欺の果て、だました男を練炭自殺に見せかけて、殺したようだ。
ようだ、というのは、本人の自白がまだないことと、状況証拠は、真っ黒だが、確証が少ないため、そんな表現にとどめているらしい。
スポーツ新聞では、堂々と顔写真入りのトップ記事?として扱っているが、テレビでは、相変わらずモザイク処理した写真と、ただ、”女”という表現を使っている。
この毒婦の犠牲になったとおぼしき方々は、報道の記事からは、まじめで、実直な人物だったようだ。
そして、婚期を逃していたり、年老いて、寂しさがつのるといった、何とも悲しげな状況だったのだ。
その寂しさにつけ込んで、この木島なる毒婦は、結婚をちらつかせたり、介護する、などと言葉巧みに(ありがちな表現!)、心の内に入り込み、金品を巻き上げたようだ。
あげく、深入りしそうになると、始末したように、私には見える。
何人も殺すと、殺人に抵抗感がなくるのではないか。
それも、首を絞めて殺す、とか、ナイフで滅多突きにする、という血しぶきをかぶる凄惨な殺し方ではないので(ハルシオンで眠らせ、練炭で一酸化炭素中毒死させる)、人殺しをしているという感覚が、希薄だったのではないか、と想像する。
だから、同じ幼稚な手口で、殺人を重ねることとなったのだろう。
この女、生活実態のない、不思議な人間である。
定職もなく、贅沢な暮らしをしているが、実家が女1人を好きにさせるほど裕福な訳じゃなさそうだ。
不思議な生き物である。
女が自白するまで、かなり抵抗するだろうし、裁判になっても、色々とありそうな事案で、犠牲になった人たちの無念を思うと、八つ裂きにして復讐してやりたくなる事件である。
この事件では、ネットが普及することによって、人目につかず、犯罪ができるようになった社会に住んでいることをあらためて、認識させられた。
そして、人は、1人では生きられない、1人で生きることは寂しいこと、という当たり前のことを、思い知らされた事件でもある。