無責任-戦争立案者たち

NHKテレビで、深夜、戦争に関与した大日本帝国海軍の参謀たちによる反省会なるものを取り上げた番組が放送されている。

戦争体験を語り継ぐという趣旨だと思うが、このところ、戦争関連の番組を、それも深夜の時間帯にやっている。

再放送でないなら、もう少しはやい時間帯に放映して欲しい。

私のような戦争を知らない世代には、戦争の悲惨な実情、太平洋戦争が、いかに無責任な形で立案され、実行されたかよく分かり、観ていると、激しい憤りをおぼえる。

多くの国民を死に追いやっておきながら、全く反省がなく、自己弁護に終始する元参謀などの戦争立案者がいる。

こんな愚劣な人間によって、死を強要されたのか、と思うと、やりきれない気持ちになる。

生きながらえた当時の指導層、高級将校、官僚などは、戦後を大手を振って生き、中には、国の中枢に堂々と居座り続けた国賊が、沢山いる。

そして、そんな連中の中には、特攻を積極的に推進しながら、戦後はなぜか復権し、国益などとうそぶいて、無垢の国民を焼き殺したあげく、原爆でとどめを刺すという悪魔のような米国人に対して、日本国最高位の勲章を授けるために奔走するという、私利私欲のための売国的行為をなす者もいた。

明治以後、創作された国粋的かつ抽象的概念を振りかざし、多くの無垢な若者に、平然と死を強要した、これら国賊たちの行為を、決して忘却してはならない。

政権も交代したことだし、いまいちど、これら国賊たちの責任追及を、しっかり行うべき時ではないかと、考えた次第である。

断っておくが、尊い命を捧げた、崇高な精神を持つ無垢の国民と、戦争指導者を、しっかりと区別すべきと、私は考える。

死人だからと言って、これらをごちゃ混ぜにして、責任を曖昧にし、聖なる犠牲者の陰に、その犯罪を隠そうとする行為は、断じて許すべきではない。

日本的な曖昧さと、都合の悪いことは水に流すという、究極の無責任で、戦争をやられては、国民はたまったものじゃない。

明治以後の富国強兵政策では、他国との戦争は不可避であったと、私は考える。

その政策をどこかで転換し、身の丈にあった国力の育成を行うべきところを、何を勘違いしたか、あるいは、司馬遼太郎の言を借りれば、長州的書生気分が指導層に染みついていたためか、短慮で、精神的脆弱さを露呈し、ついには、集団的狂気へと突き進み、あの悲惨極まりない戦争を、自ら始めてしまったのだ。

あの馬鹿げた戦争の教訓が果たして今に生かされているのだろうか、私は、大いに疑問に感じる。

美しい国、などと表現しても、日本文化に興味がなく、また、知識もなく、偶像を崇拝させることしか思いつかない、声の大きい連中が、この国を蹂躙してきたのだ。

吉田松陰の思想を、都合よく解釈、改悪し、日本人古来の精神性であるとして、先の戦争で多用された大和魂などと言う勇ましげな言葉を用いて、愚民を洗脳し、煽動する国賊がいたことを決して見逃してはならない。

明治以来のゆがみに歪んだ国のあり方を、再考するべきときが、政権交代が実現した今このときが、その適期だと思えるのだ。