脳死は人の死、か?

今日、脳死は人の死、とする法案が可決しました。

移植でしか、命を救えない疾患も、確かにあります。

そして、現行では、子供は、臓器提供できません。

ということは、移植しか救命の可能性がない子供は、死を待つしかないのが現状です。

現状は、論理的には理解できます。

しかし、私は、脳死を人の死とすることを、受け入れることはできません。

ということは、私は、移植医療を受けずに、死ぬ覚悟だということです。

医学の進歩は、人類の生活を豊かにしてくれました。

そして、その可能性は、いま、長い年月をかけて蓄積された、発生学的研究で培われた技術を用いて、さらに、発展しようとしています。

しかし、完全な臓器を作り上げることは、果たして可能なのか、全く先が読めません。

可能性だけは信じて、iPS細胞など、先端生命科学の進歩を見守りたいと思います。

人類は、医学の発展で、その生命生存の可能性をひろげてきました。

しかし、その発展の陰には、多くの死があるのです。

私が心配しているのは、いま、人類が死と定義している脳死が、死ではない、とされるときが来るのではないか、ということです。

つまり、現行の脳死から、回復する方法が、見つかる可能性を、私は信じているのです。

医者や医療者が、死を決めるべきではないと考えますし、法制化することには、大いに抵抗感があります。

いくら、専門家、なる人物が議論したところで、死というものを、普遍化などできるはずがない、と言うのが私の考えです。

死は、それぞれの、心の内にあるものだからです。

私は、何百年後かの未来で、「昔のひとは、生きている人から臓器をとって、他の人に植えていたんだってね、なんて野蛮なことをしたんだろう」と言われないことを、ただただ、祈っています。

医学は、人の死を踏み台にして発展してきたと、その行為を正当化することがありますが、私は、それは、決して許されるべきことではない、と考えます、故意ではなくても。

医者になるということは、重いことを背負う覚悟がいると考えます。