歴史と創作

歴史は、記述者の意図により、事実とゆがめられたり、事実誤認があるものだと、私は解釈している。

とくに、古代の記述は、客観的検証が難しく、それこそ、現存するわずかな資料を頼りにするしかなく、注意深く取り扱うべきだろう。

明治時代に興った帝国主義と、それが醜く巨大化した、昭和の軍国主義時代に創作された、日本的伝統や価値観は、現在も、当時の教育を受けた人間が生存し、何らかの影響力を行使し、また、その伝承者の活発な活動によって、一般国民は、あたかも、古来からの日本的伝統、日本人の根幹をなす思想のように、錯覚させられ続けている。

この点を、ズバリ言い当てたのが、司馬遼太郎さんだった。

彼は、この、ごく最近に創作された日本的伝統が、富国強兵政策の推進を助け、ついには、あの破滅的大戦にまで至ったことを、指摘した。

司馬さんは、現在を生きる我々に、警鐘を鳴らしているのだと、私は彼の著作から理解した。

こう書くと、ある種の思想に傾倒した人たちから、自虐的で、卑屈な考えだという批判を受けるだろう。

彼らの傾倒している思想が、どのように形成されたのか、そして、それは日本国民の大多数が、自分の力で苦労して勝ち取り、心から大切に思い、誇りにしているものなのか、よく検証して欲しい。

いつもの議論になるのだが、明治維新というのは、現代にも影響を及ぼすほど大きな出来事だった。

私は、その心酔者や子孫が、明治維新時代に構築された思想を維持するために、日本社会を弄くりまわしているように思えてならない。

私は、明治維新は、武家や、漁夫の利を得ようとした公家たちの、私闘だと思うし、決して、民衆のものではないと考えている。

だからこそ、現在の日本国民の、自分の頭で社会情勢を考えない、という状況があるのだと思うし、それこそが、支配者の意図するとことだったようにも思えるのだ。

マスコミさえも政府の提灯持ちをする無批判な社会、正義を行うべき機関が、思想的に問題のある人物に捜査権を与え、国策捜査を堂々と行う社会、こんな社会は、異様としか思えない。

私は、すべては、明治時代にその元凶があるように思えてならないのだ。