この駄文を書くきっかけ

旅立ちの日に」に想うこと
3月18日(金曜)、中学生の娘の卒業式に出た。式の中で、娘たちが歌っていた「旅立ちの日」にという歌が心に残った。これまでも聞いたことがあるに違いないが、今回は、強く心に響いた。なぜだろう。この数年、公私ともに厳しい時を過ごしてきて、感傷的になりやすくなっているのかもしれない。

家に帰って、インターネットで検索をかけ、この曲について調べた。その誕生の裏には、中学校再生のドラマがあることを知った。校長先生と音楽の先生の二人がほとんど一夜にして創りあげた曲で、この歌を卒業式後の謝恩会で教員が合唱して卒業生に贈ったそうだ。そして、この曲を軸にして、学校が音楽(合唱)を通じてまとまり、再生していったそうである。感動的な話だ。この曲の詩には自分の体験と重なるところがある。だからこそ、その当時のことが思い出されて、感傷的になるのかもしれない。感傷的という表現は不適切かもしれない。もっと前向きなものかもしれない。

私の場合は、懐かしさと、もうあのころにはもどることは決して出来ないという想いが複雑に交錯して、心に強く響いたのだと思う。そして、この曲をインターネットの楽曲サイトに行き、繰り返し、繰り返し、聞いた。中学時代のこと、高校時代のこと、心の奥にしまってあった思い出が次々によみがえってきた。何の感動もなかった高校入学当時のこと、○○部に入部したこと、そして、自分勝手な考えから、仲間から離れ、○○部をやめたこと、その後の勉強に打ち込めなかった中途半端な1年半、受験に完全に失敗したこと、3年間担任してくださったT先生の思い出、好きだった女の子のこと、そして、ふられたこと、などその時のことがハッキリと脳裏によみがえってきた。

今とても残念に思うことは、高校時代にやり遂げたという達成感が何一つないことである。部活、恋愛、勉強、趣味、どれをとっても中途半端。今の自分からみると、なんともつまらない高校生なのである。高校生の自分にあったら、おまえはつまらないやつだ、と言ってやりたい。中途半端に勉強が出来るくらいで、おもしろくないやつ。今の自分はどうか。たいして変わらないかもしれない。高校生の時に現在の自分のスタイルが出来ていたのだ。昔の思い出に浸り、それに埋没し、不都合な思い出は当時の自分や環境のせいにして逃げている現在の自分に気づく。

今年で4X歳となるが、今、公私ともに本当の意味での岐路に立っている。二度と中途半端なことはしないよう、これまでの人生を省みながら、この難局を乗り切っていきたい。自分の足りないところを再認識させてくれた「旅立ちの日に」に心から感謝したい。