私は相撲が大好きで、社会人も含めて、機会があれば、見るようにしているし、本場所中は、大相撲のインターネット中継やラジオ放送で、出来る限り情報を得ている。
このところ、賭博騒ぎで、大揺れに揺れた大相撲であるが、相撲、を、格闘技、として運営すること自体大間違いという考えの持ち主であることを、まずは、お断りしておく。
相撲は、国技、とよく言われるが、そのような定義はないはずである、そんな右翼的な、国粋主義的な臭いのする決めつけは私は嫌いであり、純粋に、相撲、という武道、伝統芸能(ちょっと言い過ぎか)、興業、をそれぞれの考え方で楽しめばいいと思うし、何か権威のある国技として、偉そうに、意味ありげに、傲慢に振る舞う必要などない、と考える者である。
相撲の起源は色々説があり、たとえば、モンゴル発祥だとか、さらに、遠隔の地、ヨーロッパあたりにその源がある、という、ニッポン人(日本人ではない!)、には受け入れがたい説もある。
そんなことは相撲好きにはどうでもいいことであり、力士が磨き上げた技を披露し、観衆がそれを楽しむという単純な楽しみ方が私は潔くて好きだ。
潔さ、これが、私が相撲に惹かれる1つの要因であるし、それを、どう力士が表現するかは、まさに、人格、人生観、人生、そのものの反映だと考える。
土俵上の所作で、力士は、自分の思想信条を表現しているのであり、相手をねじ伏せて、徹底的に叩き潰す、という殺戮を正当化する場では決してない。
私が相撲に惹かれる一番の理由は、あの、仕切り、という所作である。
あの独特の間合い、立ち会いに向けた時間が、私にはとても心地いいのである。
そして、一瞬の立ち会い、静から動へ、そして、静へ。
この静動静が、私には好ましく感じるのだと、自己分析している(笑)、どうでもいいことだが。
で、以下の記事が目に付いたので、引用した。
私はかねてから、白鵬が立ち会いで張り手をよく使うこと、張り差し、を見せるのが嫌だった。
張り差しも技であるが、立ち会いの出鼻を相手の顔面をはたくことでくじくというという姑息さが、横綱らしくない、と感じていた。
逆に、下位の者は、決して横綱に張り手を喰らわすことはない。
引用、ここから。
日本相撲協会の諮問機関、横綱審議委員会(横審、鶴田卓彦委員長)は24日、東京・両国国技館で12人の委員全員が出席して定例の会合を開き、秋場所で2場所連続全勝優勝を果たした大関・日馬富士(28=伊勢ケ浜部屋)を満場一致で横綱に推薦した。第70代横綱の誕生が事実上決定したが、その一方で張り手やけたぐりなどの「禁止令」が出るなど品格を不安視する意見も出た。26日に九州場所番付編成会議と理事会を開き、昇進を正式決定する。
日馬富士への「技量審査」はわずか16分で終了した。角界のご意見番、横審は2場所連続で全勝優勝の力量を高く評価したが、その一方で「品格審査」には厳しく注文をつけた。
鶴田卓彦委員長(元日本経済新聞社社長)は「一人横綱で寂しいときもあった。2人になって花が2輪咲いた。土俵が華やかになり、より熱がこもってくる」と歓迎。ただし、大関が得意とする荒々しい張り手やダメ押しなどについて質問が及ぶと「技にはあるが、見ていて気持ちは良くない。張り手やけたぐりは使ってはいけない。禁じ手とは言わないが、自覚を促したい」と言い放った。
日馬富士への「技量審査」はわずか16分で終了した。角界のご意見番、横審は2場所連続で全勝優勝の力量を高く評価したが、その一方で「品格審査」には厳しく注文をつけた。
鶴田卓彦委員長(元日本経済新聞社社長)は「一人横綱で寂しいときもあった。2人になって花が2輪咲いた。土俵が華やかになり、より熱がこもってくる」と歓迎。ただし、大関が得意とする荒々しい張り手やダメ押しなどについて質問が及ぶと「技にはあるが、見ていて気持ちは良くない。張り手やけたぐりは使ってはいけない。禁じ手とは言わないが、自覚を促したい」と言い放った。