日本国は誰のためにあるのか

最近の国会での騒動に関して、不敬罪、を叫ぶ向きもある。
 
敬意は、それ相応の人格、人徳の人に向けられるものであり、法律に定められているからそうするのではない。
 
欧米諸国から見ると、民主主義国家とは見なされていない日本国であり、不敬罪、ということを持ち出して騒ぐこと自体、先進民主主義国家から、アジアの野蛮国、というそしりを受けかねない。
 
危険きわまりない国体に関しては、先送りや曖昧な態度で終始すべきでなく、民主主義国家を目指すのか、それとも、いつ豹変するかもしれない、危険きわまりない現体制を今後も維持するのか、本気の議論が必要であり、それをもって、明治期に始まった、国民を犠牲にした帝国主義的国家創出の総決算が終わるものと考える。
 
本来なら、先の大戦で、完膚無きほどにたたきつぶされたときに、そうすべきだったのだが、国民を犠牲にすることに、何のためらいもない集団が、自己保身のために、現体制へ強引に誘導したことにより、民主化への最大のチャンスを失ってしまったのだ。
 
アメリカは、日本を隷属させることができれば、国体の存在を曖昧な形にした、偽物民主主義でも構わなかったと、私は推察する。
 
今年は、坂本龍馬、のことが大河ドラマの影響もあって取りざたされることが多いが、私は、坂本は、真の民主主義を志向していたと考えたい。
 
日本社会を牛耳っている者たちには、民主主義、は邪魔な存在に違いない、明治維新でも現在でも。
 
それは、あの明治の怪物、山県有朋に代表される思想そのものである。
 
日本社会は、この偽物民主主義を前提に成立しているので、いつまでたっても、国民の暮らし向きに目がいくことがない。