雑種強勢

私は、林望という作家?が嫌いだ。

自分と、あまりにかけ離れた世界を、彼に見出すからだと思う。

呑気に、イギリスのことや、趣味の世界を、気ままに書き綴り、講演をして、生業にしているらしい。

どこかの大学の先生だったらしいが、彼の本で、一つだけ初版本と、文庫本2冊をそろえたものがある。

彼の、高校時代のエピソードを下敷きにして書いた『帰らぬ日遠い昔』という作品だ。

40年近く前の、ある都立進学校が舞台で(今でも進学校と呼ばれているが)、その当時の、都立高校生の、日常が、誇りを持って、しっかりとした文体で書かれている。

始末に負えないのは、職場で、よく顔を合わせる人の中に、この都立高校出身者が多いことだ。

ああ、この人も、林望(リンボー)と同じ経験をしたのか、と考えてしまう。

話は、それたが、ともかく、その作品には、どこにも、いじけたところが無く、つまり、陰がないのだ。

陽というか、前向きで、正しくて、勤勉で、実直で、申し分ない、頭のいい高校生たちに話なのだ。

なぜ、この作品だけ、所蔵しているかというと、その中に、自分の所属する社会階層以外の出身の学友と交流することにより、社会というものを、考えるようになる、という行があり、その箇所に、痛く感銘を受けたからなのだ。。

当時は、有名進学校といえども、様々な社会階層出身者が集う、雑多な社会(学校)だったのだ。

この雑多な社会に身を置くことで、世の中を理解する、あるいは、社会の諸問題に思いをいたす、ということが可能だったのだ。

ところが、最近は、自分だけ特別、というのが流行らしく、なんでもお金を使って、差別化することが当たり前のように行われている。

東京都では、公教育(中学)でさえ、学内に進学塾を入れて、有料で受験対策をするという、世紀末的様相を呈している。

この、金を出して、自分だけ特別、というのがどうも引っかかるのだ。

つまり、義務教育にもかかわらず、ある特定の社会階層だけが利益を得る(この場合だと受験対策ができる)ということであり、それを、当たり前のように考えているところに、恐ろしさを感じるのだ。

そして、現状では、十分に受験対策が成された子供が、国立、都立、私立の、有名校に集中することとなる。

しかし、それらの学校は、当時の、林望氏の出身高校のように、雑多な集団ではなく、ある一定以上の経済力を持った、そして、教育というか、学歴に対して、普通より以上に関心のある家庭の子どもたちが多く集められた、均質な、粒の揃った集団なのだ。

林望氏の出身高校は、私がそこの出身者に接した範囲では、氏が書いているように、受験に対して、昔も今も、クールなようだ。

同じ都立高校でも、学力をむき出しにして、優秀さを誇示したがる学校があるが、どうも、日本的ではないように、私は感じるのだ、下品というか…、無粋というか…。

ここで生物学の話を持ち出すが、遺伝的に均質になるほど、その生物は、環境からの働きかけに弱くなる傾向がある。

例えば、病気になりやすいなどだ。

マウスでも、近郊系という、高度に近親交配が進んだものでは、ガンの発症が異常に高かったりする。

これに対して、雑種、すなわち、色々な遺伝的背景を持ったものが交配され、生まれたものは、病気に強く、環境の変化に対応する能力に優れる、などという特質がある。

この、雑種における特質をさして、雑種強勢と呼ぶ。

これは、高校で生物を真面目にやった人には、なんでもない話ではある。

話を戻すと、人間の集団でも、その構成員を、ある特定の社会階層出身者に限りることによって、極狭い価値観でしか考えない、狭量な人間が育つ可能性があるのではないか、と心配するのである。

限定的集団の中では、価値観が共有されていて、すこぶる過ごしやすいだろうが、一歩、その集団から出ると、異質なものがあふれていて、それに十分に対応できない、あるいは、対応したくない、対応する必要すら感じない、ということにならないだろうか。

そして、そんな限定的集団が、社会の中枢に優先的に人材を供給するとなったら、社会の多様性を理解し、それに十分に対応できるのだろうかと、心底心配になるのだ。

その心配が的中したとは言わないが、最近の総理大臣の不甲斐なさは、まさに、この限定的集団で育った人間の弱さに起因するのではないかと考える。

日本の、今の教育熱が、この傾向をさらに強め、社会が、柔軟な対応力のない、偏った価値観でしか動けない人間を増やしてしまうのではないかと、考えてしまうのだ。

生き物は、雑多な方がいいのだ。

それが、生き物が生きながらえるための、自然の摂理なのだ。

追記:

初版本の中に、遺伝情報に関する記述で、核酸を構成する4種の塩基を、アミノ酸と誤認している箇所があるが、文庫版では、訂正されていた。