愛してる、が軽すぎない?

NHK松山放送局制作のテレビドラマ、「きみの知らないところで世界は動く」を正月に見た。

セカチュウ世界の中心で愛をさけぶ)に似た話だなあ、と直感したが、案の定、原作者は片山恭一だった。

もしかして、これを拡張したのがセカチュウだったのかな、と思わせる内容だった。

セカチュウは、映像の力で洗練され、純愛を欲する現代人にとてつもなく支持された。

映像の助けがなかったら、あそこまで原作が売れただろうか。

きみの知らないところで世界は動く」だが、三人の高校生が主役なのだが、恋人の病気(過食と拒食)、親友の突然の死、などをエピソードに据えたベタな青春ものだった。

高校生である恋人二人が、一番好きなのは生涯あなただ、というくだりには強烈な青春もの臭さで、ちょっと抵抗があったが、なんとなく見続けてしまった。

ところが、ラストでとてつもなくズッコケさせてくれた。

それは、時がたち、中年となった恋人同士が、高校の同窓会で再会するという場面だった。

別れて何十年もたっているのに、ほんとに久しぶりの再会にもかかわらず、いきなり男が「愛している」と相手の女の人に言い放つたのだ。そして、女性は、「私も愛している」と返えした、まるで高校生の時のように。

愛している、ってこんなに簡単に言える言葉なのだろうか。この二人にとって愛とは何なのか、と考え込んでしまった。僕には、この場面での愛という言葉がとても軽く感じられた。

テレビドラマ化に伴って、脚色されているとは思うが、原作でも同じように表現されているならば(僕は原作を読んでいない)、作者に「愛」の定義を聞いてみたい。

元恋人の二人に、いとも簡単に、愛していると言わせるなら、二人の今の人生が欺瞞に満ちた、薄っぺらいものになってしまうのではないだろうか。

以前ブログに書いたが、映画版のセカチュウにはとてもガッカリさせられた。そして、このテレビドラマにも。僕には今流行の純愛?は理解できない。